2025年9月2日火曜日

8/30.31.9/2 とうがらし乾燥中、柳井、防府のゆり

 

 8/31(日)徳山礼拝所の礼拝で捧げられた「とうがらし」の実。

 処理をして、摘んで、乾燥中。果たして食べられるでしょうか?

 8/31(日)防府礼拝所の記念堂。

 野の百合が一輪。

 8/30(土)柳井礼拝所の献花。

 こちらも百合。

 8/31(日)徳山礼拝所。とうがらしが・・・。
 8/27(水)。この日は須金あたりでぽつぽつ降り出したものが、広瀬では豪雨。

 六日市では止んでいました。

 「ゲリラ豪雨」という雰囲気ではなく、夕立。この言葉も最近聞かなくなりました。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

9/3 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

9/6 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

9/7 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

9/10 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

9/13 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

9/14 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

        15時 防府チャペル礼拝 

8/31(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。

聖霊降臨後第12主日 説教 

ルカ福音書1417-14節 「比べる心から、祈る心へ」

水原一郎

① 本日の聖書は、ルカ福音書141節および714節となります。「安息日」つまり神さまのみ前に心を安んじる日の出来事です。主イエスが、安息日の意味を回復され、痛み、苦しみのただ中にある方々と共におられる、主のまなざしを覚えます。


② まず1節を見ましょう。「安息日のことだった。イエスは・・・あるファリサイ派の議員の家で食事をされた」とあります。この日、イエスは礼拝の後、有力なファリサイ派の議員のもとに招かれました。ところで、安息日をめぐっては、すでに13章で「十八年もの間、腰が曲がっていた女性」を癒した主に対して会堂長が憤る場面がありました(13:1017)。今日の箇所(14:1)の続きである、読まれなかった26節にも同様の緊張が見られます。体のなかに水分が溜まる「水腫」を、主が癒されたのです。


③ 安息日は「神を礼拝する日」として重んじられていました。会堂長、ファリサイ派は、「礼拝をする」ために「何をしてはならないか」という禁止を定めていたのです。それに対し主イエスは、安息日を「人の命と尊厳が回復される日」と見ておられたのです。先日の「十八年もの間、腰が曲がっていた女性」にしても、読まれなかった26節の「水腫」の人にしても、その痛みは当人が良く知ります。ファリサイ派はその痛みをあくまでも「他人事」としますが、主イエスは「自分事」とします。だから、癒されるのです。禁止事項で固められた当時の安息日を、神のみ前に心を休める時とするのです。


④ 場面は食卓へ移ります。招かれた人々は、我先にと上席を選びました。誰がどの席に座るか名誉と体面がものをいいます。「自分はどこに座れる者か」自分と他者とを比べ、競い、優劣を決める心です。「誰がどの席に座るか」ではなく、「自分がどの席に座りたいか」が先行する空気。背景には、他者と自分とを比べる思いがあります。


⑤ そこで主は語られます。「高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」ここで言われているのは、単なる席次のマナーではありません。神の国では、評価の物差しそのものが入れ替わる、ということです。社会では、人のまなざしの前に私たちは身を置き、座らされます。しかし安息日は、人ではなく、神のまなざしの前に――低く座るのです。そして主は、招かれた客だけでなく、主催者にも語られます。「昼食や夕食の会を催すなら、友だち、兄弟、親類、金持ちの隣人を招くな。むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招け。」見返りを求めない交わり。そこに――神の国の食卓が、いま、ここに、ひらかれます。


⑥ きょう、この場にも、見える痛みを負う方がいるでしょう。外からは見えない深い痛みを抱える方もおられるでしょう。主は、どちらも見過ごされません。安息日とは、痛む者に「安らぎ」と「回復」が与えられる日。比べることをやめ、神の前に静まり、低く座る日です。では、新しい一週間を、どう歩み始めましょうか。三つ、具体的に申し上げます。一つ、人の眼差しの中に、励まされて出てゆく。二つ、今この時は「神の眼差しの中に座る」と覚える。三つ、この週、見返りを期待できない相手を、一人、覚えて祈る。


⑦ 主イエスは、安息日のただ中で、痛む者を癒し、高ぶる者を戒め、へりくだる者を高くされました。私たちも、そのまなざしの中に立ち、新しい週へと歩み出しましょう。