8/31(日)徳山礼拝所の礼拝で捧げられた「とうがらし」の実。
処理をして、摘んで、乾燥中。果たして食べられるでしょうか?
野の百合が一輪。
こちらも百合。
8/27(水)。この日は須金あたりでぽつぽつ降り出したものが、広瀬では豪雨。
六日市では止んでいました。
「ゲリラ豪雨」という雰囲気ではなく、夕立。この言葉も最近聞かなくなりました。
今週以降の行事は、以下のとおりです。
いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。
9/3 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝
9/6 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
15時 防府チャペル礼拝
9/10 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝
9/13 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
9/14 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び
10時45分 徳山チャペル礼拝
15時 防府チャペル礼拝
8/31(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。
聖霊降臨後第12主日 説教
ルカ福音書14章1、7-14節 「比べる心から、祈る心へ」
水原一郎
① 本日の聖書は、ルカ福音書14章1節および7〜14節となります。「安息日」つまり神さまのみ前に心を安んじる日の出来事です。主イエスが、安息日の意味を回復され、痛み、苦しみのただ中にある方々と共におられる、主のまなざしを覚えます。
② まず1節を見ましょう。「安息日のことだった。イエスは・・・あるファリサイ派の議員の家で食事をされた」とあります。この日、イエスは礼拝の後、有力なファリサイ派の議員のもとに招かれました。ところで、安息日をめぐっては、すでに13章で「十八年もの間、腰が曲がっていた女性」を癒した主に対して会堂長が憤る場面がありました(13:10–17)。今日の箇所(14:1)の続きである、読まれなかった2〜6節にも同様の緊張が見られます。体のなかに水分が溜まる「水腫」を、主が癒されたのです。
③ 安息日は「神を礼拝する日」として重んじられていました。会堂長、ファリサイ派は、「礼拝をする」ために「何をしてはならないか」という禁止を定めていたのです。それに対し主イエスは、安息日を「人の命と尊厳が回復される日」と見ておられたのです。先日の「十八年もの間、腰が曲がっていた女性」にしても、読まれなかった2~6節の「水腫」の人にしても、その痛みは当人が良く知ります。ファリサイ派はその痛みをあくまでも「他人事」としますが、主イエスは「自分事」とします。だから、癒されるのです。禁止事項で固められた当時の安息日を、神のみ前に心を休める時とするのです。
④ 場面は食卓へ移ります。招かれた人々は、我先にと上席を選びました。誰がどの席に座るか―名誉と体面がものをいいます。「自分はどこに座れる者か」自分と他者とを比べ、競い、優劣を決める心です。「誰がどの席に座るか」ではなく、「自分がどの席に座りたいか」が先行する空気。背景には、他者と自分とを比べる思いがあります。
⑤ そこで主は語られます。「高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」ここで言われているのは、単なる席次のマナーではありません。神の国では、評価の物差しそのものが入れ替わる、ということです。社会では、人のまなざしの前に私たちは身を置き、座らされます。しかし安息日は、人ではなく、神のまなざしの前に――低く座るのです。そして主は、招かれた客だけでなく、主催者にも語られます。「昼食や夕食の会を催すなら、友だち、兄弟、親類、金持ちの隣人を招くな。むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招け。」見返りを求めない交わり。そこに――神の国の食卓が、いま、ここに、ひらかれます。
⑥ きょう、この場にも、見える痛みを負う方がいるでしょう。外からは見えない深い痛みを抱える方もおられるでしょう。主は、どちらも見過ごされません。安息日とは、痛む者に「安らぎ」と「回復」が与えられる日。比べることをやめ、神の前に静まり、低く座る日です。では、新しい一週間を、どう歩み始めましょうか。三つ、具体的に申し上げます。一つ、人の眼差しの中に、励まされて出てゆく。二つ、今この時は「神の眼差しの中に座る」と覚える。三つ、この週、見返りを期待できない相手を、一人、覚えて祈る。
⑦ 主イエスは、安息日のただ中で、痛む者を癒し、高ぶる者を戒め、へりくだる者を高くされました。私たちも、そのまなざしの中に立ち、新しい週へと歩み出しましょう。




