9/12の朝、新しく購入した生垣バリカンを試すという名目で、
防府の草刈りに出かけました。
9/10(水)六日市礼拝所の礼拝前?
秋桜はこれからですが、白い花。名前は…?
9/16(火)徳山礼拝所の朝。今週以降の行事は、以下のとおりです。
いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。
防府礼拝所の、礼拝開始時間が長らく間違っていました。訂正いたします。
9/17 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝
9/20 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
9/24 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝
9/27 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
9/28 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び
10時45分 徳山チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
9/14(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。
聖霊降臨後第14主日 説教
ルカ福音書15章1節-10節 「見つけ出される羊と銀貨」
水原一郎
① ルカ福音書15章は、ある種の驚きと共に始まります。「徴税人や罪びとが皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た」。彼らは、当時の社会から忌み嫌われ、見下されていた人々です。彼らがわざわざ主イエスに近づこうとしています。これは、注目すべき光景です。この直前の14章の最後で、主イエスは「塩が塩気を失えば、何の役にも立たず、捨てられてしまう」と語られたばかりだったからです。それほどまでに厳しい言葉を語るお方のもとに、あえて近寄る人々がいたのです。おそらく彼らは、自分こそが「塩気を失った者」、社会の中で自分はもう見「捨てられている」と感じていたのかもしれません。けれど同時に、主イエスの語る「捨てられるもの」の中に、自らの姿を重ね合わせ、その方がどんな言葉を語られるのかに、望みを抱いていたのでしょう。
② その彼らに向かって、主イエスは三つのたとえを語ります。「見失った羊」「なくした銀貨」「放蕩息子」のたとえです。三つに共通しているのは、たとえ一つでも失われたものがあれば、それを放っておかないという姿勢です。見つけるまで探し、見つけたときには喜ぶのです。けれども、これらのたとえは私たちに違和感も与えます。
· 「たった一匹のために、九十九匹を荒れ野に置いていくのは危険では?」
· 「九枚あるなら、それで十分では?」
· 「あのような放蕩息子を許す父親は、現実にはいないのでは?」
主イエスは“常識的疑問”を私たちに呼び起こしながら、神の愛の重さを語ります。
③ たとえ話は、「悔い改める一人の罪人のために、天では喜びがある」と締めくくられます。ですが、ここで一つ問いが浮かびます。いったい、誰が悔い改めたのでしょうか? 羊は、自分で帰ってきたのではありません。道に迷い、さまよっていただけです。銀貨に至っては、動くことすらできません。ただ落ちたまま、床に転がっていたのです。しかし、羊飼いは羊を見つけて肩に担ぎ、女主人は銀貨を見つけて友人を呼び集め、喜びの宴を開く。それこそが「悔い改め」なのだと、主イエスは語られます。つまり、悔い改めとはまず、神の側から始まる出来事なのです。神が探し、見出し、抱きしめる。その愛に包まれて初めて、人は応答することができる。悔い改めとは、私たちの努力や意志の結果ではなく、神のあわれみが先立つ恵みなのです。
④ 世の中は、失敗した者、役に立たない者を切り捨てます。律法学者やファリサイ派は、そうした考えに生きていました。「罪びとなど相手にするな」「彼らと食事を共にするなど不敬だ」と批判します。けれど主イエスは、彼らを拒みません。むしろ、進んで彼らのもとに歩み寄り、共に食卓を囲み、語られます。神の愛が、見捨てられた者にも変わらず注がれていることを示すためです。この神の姿こそ、福音の中心です。
⑤ ルーテル教会の礼拝では、「罪の告白と赦し」の時間が備えられています。静かな、ほんのひとときです。その中で、私たちは神の前に沈黙します。自分の罪を思い起こす時もあるでしょう。ただ心しずめる時とされる方もあると思います。春の鳥、夏の虫、秋の風、冬の静かさを感じる時でもあります。しかし、その沈黙の中に、すでに神のまなざしは注がれているのです。迷い、道を見失った私たちを、それでも探し、見つけ出し、抱きしめてくださる神が、ここにおられます。この神の愛があるからこそ、私たちはもう一度立ち上がることができます。その信頼に立って、今週も歩んでまいりましょう。