今週以降の行事は、以下のとおりです。
いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。
9/10 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝
9/13 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
15時 防府チャペル礼拝
9/17 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝
9/20 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
9/21 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び
10時45分 徳山チャペル礼拝
15時 防府チャペル礼拝
9/7(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。
礼拝の聖書箇所ですが、日課とは異なっています。
日課はルカ14章25-33節ですが、説教はルカ14章34-35節で作成しました。
聖霊降臨後第13主日 説教
ルカ福音書14章34節-35節 「存在の価値―地の塩」
水原一郎
① 「塩」について語られているこの箇所。私たちは蒸し暑いこの夏を越えてきました。台所は湿気がこもります。専用の入れ物に入れているとはいえ、時に塩は湿り気を含んで、固まります。塩は周りの影響を受けやすい、時に私たち人のようなものなのです。
② 本日は、ルカによる福音書14章34–35節から、主の御言葉に耳を傾けたいと思います。この箇所では、主イエスが突然「塩」について語っているように見えます。「いきなり」と思えるこの言葉ですが、実は、他の福音書との関係において、その意味がより深く理解されます。特にマタイによる福音書5章13節にある「あなたがたは地の塩である」という有名な言葉と併せて読むことが大切です。マタイでもルカでも、「もし塩が塩気を失ったら」という、もしものことを言われます。つまり、本日の箇所は、「地の塩、世の光」という主の言葉を背景として読まれるべきものです。
③ マタイ福音書の「地の塩」「世の光」の言葉は、主イエスが召し出したばかりの弟子たちに語られた言葉です。弟子としてのキャリアがこれからの弟子たちに対し、イエスはまず、その存在が、かけがえがないと宣言されます。塩も光も、どちらもこの世に不可欠なものです。主は、「あなたがたがいること自体が、この世に必要なのだ」と語っておられるのです。行動よりもまず存在に意味がある。それが主イエスの言葉です。
④ この前提を踏まえて、ルカ福音書14章の言葉を読みましょう。まず、「塩が塩気を失う」とはどういうことでしょうか。塩の本質は塩辛さ、すなわち他のものに影響を与える力です。その本質が失われることは、本来あり得ないことです。が、現実には「湿気」が塩を変質させ、役割を損なわせます。塩は他と関わることで初めて意味を持ちます。「塩気がなくなる」とは、他との関わりを失うことを指しています。
⑤ このことを私たちの日常に当てはめてみましょう。私たちの「関わる力」を失わせる「湿気」のようなもの――それは周囲の言葉、出来事、不信、無力感、傷つけられた心、そういったものかもしれません。何気ない一言や出来事が、私たちの心を内に閉じ込め、他者と関わろうとする力を弱めていきます。主イエスは、塩気を失った塩は「役に立たず、外に投げ捨てられる」と語られました。これは厳しい現実です。
⑥ しかし、そこで終わらないのが主イエスの福音です。次章のルカ15章において、主は「失われたものを探し出し、喜ぶ」三つのたとえ話を語られます。「迷い出た羊」「失われた銀貨」「放蕩息子とその兄」。失われた存在に対する主の深い愛と関心を表しています。この世は、私たちの社会は、「役割を果たせないもの」「関われなくなった者」を捨てる厳しさがあります。しかし、主はそうではありません。主は、関われなくなった者にこそ目を注ぎ、その存在の尊さを喜ばれるのです。
⑦ 主のまなざしの中で、私たちは常に「かけがえのない一人」として見られています。たとえ今、心が湿気に覆われていても、主は回復を願っておられます。主によって癒され、心を整えられた私たちは、再びこの世に出ていき、周囲に良い影響を与える「塩」として生きることが求められています。自分の存在が尊ばれている――その確信を力として、他者との関わりを取り戻しつつ、日々を歩んでいきましょう。