12/2(火)徳山礼拝所の朝。
聖家族像、ツリーが設置されました。
こちらも聖壇が紫と変わり、アドベント。
11/29(土)柳井礼拝所のツリー設置中。
11/26(水)六日市礼拝所。礼拝前に撮影。
切り株に熟柿。晩秋を感じました。
今週以降の行事は、以下のとおりです。
いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。
12/3 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝
12/6 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
12/10 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝
12/13 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
12/14 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び
10時45分 徳山チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
11/30(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。
待降節第1主日 説教
マタイ福音書24章36節-44節 「希望のろうそく」
水原一郎
① 19世紀、ドイツのハンブルグのルーテル教会に、ヴィッヒェルン牧師がいました。「ラウエス・ハウス」という児童施設を開設しました。クリスマスが近づいたある日、子どもたちが牧師さんに聞きます。「クリスマスまで、あと何日?」 クリスマスまでの日取りを目で見て分かるために、牧師さんは大きな車輪に、大きなろうそく、小さなろうそくを付けます。日々の礼拝では小さなろうそくを灯し加え、日曜日の礼拝では大きなろうそくを灯します。「アドベント・クランツ」の由来です。私たちは今日、待降節第一主日を迎えました。最初のろうそくに火が灯されています。一本目のろうそくは「希望」を象徴しているとされます。第二が平和、第三が喜び、第四が愛。「アドベント・クランツ」も、ろうそくの意味も、教会の会議で決められたものではありません。ただこれらは、御子主イエスの誕生を心待ちにする人々の心、人々がこの地上で実現を目指す心の現れです。今日の御言葉も、クリスマスの出来事の始まりを教えるものなのです。
② 本日の御言葉は、「その日、その時は誰も知らない」という主イエスの言葉から始まります。これは、「終わりの時」―すなわち、主イエスの再臨のときに関する言葉です。ノアの時代、人々は日常を何の備えもなく過ごし、突然、洪水が襲いました。同じように、主の日もまた、予告なくやって来るのです。だからこそ、イエスは弟子たちに「目を覚ましていなさい」と命じられました。それは、日々を主に向かって歩む姿勢を持ち続けることを意味します。抽象的な表現ですが、具体的には何を意味するでしょうか。
③ 日本でも世界でも、「終末」は恐怖や不安の材料として語られやすいものです。「一人は連れ去られ、一人は残される」といった表現を強調し、人々の不安を煽るような語り口です。しかし主イエスの意図は、決して人々を怖がらせることではありません。主イエスは、再臨のときを明確に告げず、むしろ「恐れではなく希望に生きるとは何か」「今をどう生きるか」を語ります。マタイは次の25章でその姿を描いているのです。
④ 例えば25章14節「タラントンの譬え」では、それぞれが与えられた賜物を用いて生きることを語ります。また31節「最後の審判」では、日々を生きるときに、どれほど主に忠実であったかが、隣人への行動によって明らかにされます。主を待ち望むとは、与えられた賜物を用いながら、日常の働きを「使命」と捉えて生きることです。また、日常生活の中で、自身の賜物を用いて隣人と共に生きることなのです。
⑤ 私たちの目の前に灯る「アドベント・クランツ」の一本目は、伝統的に「希望」のろうそく」と呼ばれています。ろうそくを名付けることは、一つの習慣です。しかしこの慣習が意味することは、昔の人も、この地上に希望を求め、ろうそくに祈りをも灯したということです。その慣習を紹介する意図は、この地上に私たちもまた希望が必要だと認めるからです。「希望を届ける働き」は、私たちに託されています。私たち以前に、福音書が語る主イエスも行っていました。働きの中身は、実にさまざまです。人を励まし、支え、癒し、その心に穏やかさを増し加える。私たちも主イエスに繋がっています。
⑥ そのために、「目を覚ましている」教えを静かにかみ締めましょう。「今日という日を、神の御心に従って生きる」決意を求めましょう。この待降節の歩みの中で、主のご降誕を希望とともに待ち望みながら、今の時代を過ごすものでありますように。




