2025年12月16日火曜日

12/10六日市の初冬、12/11西宮教会、12/13柳井、12/14ポインセチア成功!、12/15防府の水仙

   本年の クリスマスの行事は以下のとおりとなります。

 12/17(水)14:00~ 六日市チャペル クリスマス礼拝

 12/20(土)15:00~ 柳井チャペル クリスマス礼拝

 12/21(日)10:45~ 徳山チャペル クリスマス礼拝

       15:30  防府チャペル クリスマス礼拝

 12/24(水)19:30  徳山チャペル クリスマス・イブ礼拝

 それぞれ、どうぞご予定に入れて頂ければ幸いです。


 12/10(水)六日市礼拝所の礼拝前、いかにも「初冬」の写真でした。
柿の木に残る渋柿、その向こうには緑と茶色の山々。柿の麓にも枯草。

こちらは12/11(木)兵庫県の西宮教会。
教会の方々と役員会を行ってきました。
その後、近隣の牧師と話し合いもしました。

12/13(土)柳井礼拝所。
待降節第三主日の礼拝でした。
これは「無為の為」によって色づいたポインセチア。
三年前、防府礼拝所から預かったポインセチアの株が、今年初めて色づきました。
赤化の秘訣は「段ボールをかぶせる」ようですが…。放っておいたらこうなりました。
その防府礼拝所。
この日は薄曇りでした。
水仙の葉がぐんぐんと伸びていきます。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

12/17 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 クリスマス礼拝

12/20 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 クリスマス礼拝

12/21 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 クリスマス礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝 クリスマス礼拝

12/24 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 週報による家庭礼拝となります。

           集う形の礼拝は、1/7(水)を予定しています。

12/24 水曜日 19時30分 徳山チャペル クリスマス・イブ礼拝 

12/27 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

12/28 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

12/14(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 

待降節3主日 説教 

マタイ福音書112-11節 「喜びの灯は、揺れる心に」

水原一郎

① 待降節第3主日、アドベントクランツには三本目のろうそく—「喜び」の灯がともりました。「希望」「平和」、そして今日の「喜び」。光は確かに増えていきます。しかし、本日与えられた福音書はどうでしょうか。牢獄の中にいる洗礼者ヨハネは揺れています。悔い改めを叫んだあのヨハネが、闇に閉ざされ、主イエスを疑っているという場面です。待降節第3主日は「喜びの主日」と呼ばれています。ろうそくも「喜び」と名付けられています。一方で、この箇所は「喜び」から最も遠いように見えます。けれども聖書は、喜びから遠い場所、「揺れる心」ただ中に灯る「喜び」を示そうとしているのです。


② ヨハネが牢獄にいる理由は明らかです。マタイ14章によれば、彼はヘロデ王の不義を告発しました。しかし、その正しさは受け入れられず、むしろ拒まれ、封じられました。光に向かって歩み、光である主イエスを指し示していたヨハネは、暗い獄の中で立ち止まります。想像してみます。木の戸が閉ざされた狭い牢。湿った空気。祈っても返事のない沈黙。「私は間違っていたのだろうか」「正しいことを語ったのに、どうしてこのような場所に」ヨハネは、心が揺れます。彼の心から“喜び”は遠く離れて見えました。


③  洗礼者ヨハネはかつて、「来たるべき方」として主イエスを力強く指し示しました。「火と聖霊による洗礼を授ける方」(マタイ3:11)、「殻を消えない火で焼き尽くす方」と語ったのです。しかし、ここまでの主イエスの行いはどうでしょうか。病を癒し、痛みに向き合い、裁くことなく人々に手を差し伸べる。その姿は、ヨハネが抱いたメシア像とは異なって見えたに違いありません。だから、彼は問いを弟子たちに託します。「来たるべき方はあなたですか、それとも他の方を待つべきでしょうか」。確信に満ちていた預言者の唇からこぼれた、一つの“問い”。そこに、揺れる心の真実が現れています。


④ そんなヨハネに対し、主イエスはどうされたか。叱責や沈黙でもなく、こう答えられます。「目の見えない者が見え、歩けない者が歩く」。これはイザヤ61章の預言の引用です。あの時のイザヤは、「捕囚」から帰った直後でした。イザヤはまず「目の見えない人、歩けない人」に注目していることが大切です。主イエスはそのようなイザヤを引用し、“小さな人々に注がれる神の眼差し”を語られました。イザヤが捕囚からの帰還という混乱の中で、まず隣人に目を向けたように、主イエスもまた“最も小さい者”に神の力が働くことを告げます。そしてヨハネを疑いごと丸ごと受け止めた上で、彼の偉大さを認め、さらに言われるのです。「天の国で最も小さい者でも、ヨハネより偉大である」小さくされることがあります。心が揺れることも、弱さを実感することもあります。そこに、神さまの光は最も強く差し込むのです。これが今日の「喜び」の核心です。


⑤ この主日が「喜びの主日」と呼ばれるのは、苦しみがなくなるからではありません。心を揺らす出来事が起きなくなるわけでもありません。むしろ、揺れ動く心にこそ、神の光が届くことを語る、それを喜びとするのです。牢獄で疑うヨハネ。祈っても答えが聞こえないように感じる人。不安や痛みに押され、信仰が揺らいでしまう者。主イエスは、その揺らぎを責めません。そこに寄り添い、その暗さへ光を届け、「見よ、神の国はここに始まっている」と告げられます。私たちの心もまた、しばしば揺れます。病、孤独、葛藤、失敗、人間関係の重荷。そこに主は来られ、「恐れるな」とささやき、小さな“喜びの灯”をともされます。だから私たちは、この救い主を喜びの内に待ち望むのです。