初めに、12/17六日市礼拝の記載の記事を一部修正いたしました。
ポインセチアはほぼ一カ月、用いられました。
風が強い一日でしたが、本年最後の主日礼拝がこちらでも行われました。
良く見ると、雪が舞っています。徳山でも初雪。
早朝には、車にうっすらと積もっていました。
今週以降の行事は、以下のとおりです。
いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。
12/31 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 家庭礼拝です。
1/3 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
1/7 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 集う形の礼拝を予定しています。
1/10 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
1/11 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び
10時45分 徳山チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
12/28(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。
降誕後主日 説教
マタイ福音書2章13節-23節 「神は泣くもののそばに」
水原一郎
① 主イエスの誕生を私たちは祝い、クリスマスの礼拝を行いました。今週、主イエスの誕生の次第が描かれた福音書の続きを読むことになります。マタイ2章13節からの物語には、私たちの心を刺すような出来事が記されています。ヨセフとマリア、そして幼子イエスは、ヘロデ王の怒りから逃れてエジプトに避難します。主の天使が夢でヨセフに告げたからです。ヨセフは迷わず、夜のうちに家族を連れて出発しました。
② 描かれている内容は後に触れます。今日はまず、その内容を受けたマタイの引用である「エレミヤ書」に触れたいと思います。この出来事は、エレミヤ書31章からの引用です。エレミヤの時代、バビロンの軍隊がユダヤに侵入し、人々を自国に連れ去ったということがありました。エレミヤは、ラマという場所にいた親たちの嘆きに「ラケル」なる人物も泣いていると言います。このラケルは既に地上の命を終えた人物で、伝説の人物ヤコブの妻でした。この時、エレミヤが意図していたことは「子どもを無くした親」への言葉かけでした。何を語るのか、伝えるのか。エレミヤは親たちに、①ラケルの涙を ②不意の死を遂げた子どもたちをラケルが迎えること ③親たちへの共感 を伝えるのです。エレミヤ書のその記載を、福音書を描いたマタイは告げるのです。
③ 記載されている記事は、悲しい出来事です。ヘロデは、自分が嘲られたと知り、怒り、ベツレヘム周辺の二歳以下の男の子をすべて殺すよう命じたのです。これは、歴史の中の事実として確認された出来事ではありません。が、ローマ属州の大王に昇り詰めるまでに、実際に残忍な粛清を繰り返していたヘロデの性格から、十分にあり得たことです。ここで、私たちは問いを突きつけられます。 なぜ、主イエスの命だけが助かり、なぜ、他の子どもたちは見殺しにされねばならなかったのか。主イエスの命を守るために、他の命が犠牲にされたようにさえ思えるのです。
④ 主イエスを連れて逃げたヨセフとマリアにすれば、占星術の学者たちを通した天使のお告げに従っただけということです。進言した占星術の学者たちにすれば、お告げを述べただけなのです。この二つの出来事が、ヘロデの猜疑心を煽り、結果として理不尽に直面したのが「ベツレヘム周辺の二歳以下の男の子」とその家族でした。しかし、マタイは、この子どもたちの死を「なかったこと」としては書きませんでした。大昔に生きたラケルが、今この時代の人とも一緒に泣いている―マタイはそう語るのです。
⑤ そして、私たちはこう信じます。救われた幼子主イエスは、いつか命を差し出すために、生き残ったと。救われた主イエスは、後に十字架につきました。主イエスの死は、後のち、すべての者のために、死に打ち勝つ命をもたらすものでした。このとき失われた子どもたちは、主イエスの十字架の死の中で、主イエスと出会い、主イエスに受けとめられたのです。主イエスは全ての者の死を引き受ける者として、守られたのです。
⑥ 私たちの周りにも、理由を見出せない苦しみがあります。命が理不尽に奪われることがあります。しかし、神はその涙を見ておられます。「なかったこと」として忘れることはなさいません。だから今、私たちは、このように信じます。「主は泣く者と共におられる」と。十字架と復活の主イエスが、痛みのただ中で、今も生きておられるのです。


