2025年12月9日火曜日

12/3六日市初雪、12/6徳山、12/6徳山、12/7防府

本年の クリスマスの行事は以下のとおりとなります。

 12/17(水)14:00~ 六日市チャペル クリスマス礼拝

 12/20(土)15:00~ 柳井チャペル クリスマス礼拝

 12/21(日)10:45~ 徳山チャペル クリスマス礼拝

       15:30  防府チャペル クリスマス礼拝

 12/24(水)19:30  徳山チャペル クリスマス・イブ礼拝

 それぞれ、どうぞご予定に入れて頂ければ幸いです。



12/3(水)六日市で初雪を見ました!

うっすらと雪化粧。まだノーマルタイヤだったので、

帰り道はゆっくりと。さすがに路面凍結はまだですが・・・。

12/6(土)日程はたぶん、です。

徳山礼拝堂の朝の様子。

好きな景色のうちの一つです。

12/6(土)同じくたぶんの日程。

早朝5時、満月。


 12/7(日)防府礼拝堂

隣の建物が映らないように。はっさく、万作。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

12/10 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

12/13 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

12/14 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝 

12/17 水曜日 14時 六日市チャペル礼拝 クリスマス礼拝 

12/20 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 クリスマス礼拝 

12/21 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 クリスマス礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝 クリスマス礼拝

12/7(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 

待降節2主日 説教 

マタイ福音書3章1節-9節 「まあいいよ、心が荒れていても」

水原一郎

 待降節第2主日を迎え、アドベント・クランツには二本のろうそくが灯りました。一本目の「希望」に続き、本日は「平和」を象徴するろうそくです。昔も今も、人々は「希望と平和」を求めて祈り続けてきました。しかし私たちの周りには、世界にも社会にも、争いや対立、不安、孤独が絶えません。「世界や社会」は大きすぎます。私たち自身の心の内にも、ざらつきや焦り、落ち着かない思いが渦巻くことがあります。そんな時にこそ、聖書の語る「平和」に耳を傾けたいのです。マタイ3章で、洗礼者ヨハネが語った言葉の中に、荒れた現実のただ中で灯される平和を見いだすことができます。


 ヨハネは「荒れ野で叫ぶ声」として登場します。彼が身にまとう姿「らくだの毛の衣、革の帯、食物はイナゴと野蜜」は何でしょうか。旧約聖書の預言者エリヤを思わせるものです(列王記下18節)。ヨハネは、自分の働きをイザヤ書403節の預言になぞらえ、「神のために、荒れ地に広い道を通せ」と告げます。ヨハネが活動した「荒れ野」とは、単なる地理ではありません。それは人々の生きる世界、混乱する社会、そして私たち自身の心の状態を映す言葉でもあります。心が乾き、心が何かで荒らされている時、そこに神が来られる――ヨハネはその出来事を告げているのです。


 ヨハネは「悔い改めよ。天の国は近づいた」と語ります。この「悔い改め」(メタノイア)は、ただの反省や後悔ではありません。心の向きを変える、視線の先を変える、新しい方向へと歩き出す――心の荒野に来られる神さまとの出会いを指します。しかし、その出発点は私たちの努力ではありません。「天の国は近づいた」とあります。先に、神さまが私たちへと「近づいてくださる」のです。神の国が、私たちの生活の現実、働き、家庭、悩みのただ中に忍び寄ってくる。「もう立ち止まるしかない」という時、「もう変われない」と感じる時に、「天の国は近づいた」という福音が響きます。これは具体的には、「あなたの深い悲しみのに神が降りて来られた」ということなのです。


 ヨハネの言葉は厳しい響きを持ちます。特に、形ばかりの信心を誇っていたファリサイ派やサドカイ派には、「蝮の子らよ」と遠慮なく叱責しています。しかし、この厳しさは拒絶のためではありません。彼らが本当の意味で神さまの前に立ち帰り、新しい歩みを始めるための、痛みを伴う呼びかけです。外見の敬虔さではなく、神さまの心を中心に生きること――それが「悔い改め」であり、「平和」の始まりです。目の前の人に赦しを伝えること、優しい言葉をかけること、不安な人に寄り添うこと。こうした行為の一つ一つが、神の平和のしるしとなるのです。


 「荒れ野で叫ぶ声」は、今を生きる私たちにも響いています。心が乾き、ざわつき、何かがうまくいかない。そんな「心の荒れ野」を抱える日々があります。しかし、神はその荒れ野にこそ語りかけます。「天の国は近づいた」と。だから、「心が荒れていてもまぁいいよ」なのです。ヨハネが荒れ野に立ったように、主イエスは私たちの荒れた心へまっすぐに歩み寄られます。心が整ってからではなく、平和、平安になってからでもなく、弱さや乾きのただ中に神は来られます。その声を聞き、ほんの少し心の向きを主イエスへと転じる時、私たちの内側から平和が芽生え始めます。世界も社会も、そして私たち自身も、「希望と平和」を必要としています。その必要を、主が豊かに満たしてくださる日々を願いながら、このアドベントを歩みたいと思います。