2016年1月17日日曜日

1/17 礼拝献花と説教、そしてもちつき


 本日も、柳井、徳山、防府では礼拝が行われました。
 徳山では礼拝後、もちつきが行われました。
 なぜ教会で、なぜ今と、考え始めたらいろいろと複雑になりますので、
 動画を見て感じて頂ければと思います。きっと、楽しくなることでしょう。
 著作権的に、少々危険な「あんこ入りパンマン」の画像がありますが、
 証拠は今、誰かの子どもたちのお腹の中でしょう。
 
 なお、動画のBGMは、「一丁入り」から頂きました。「老松」とどちらにしようか迷ったのですが。
 もちつきは、「古い」行事かもしれませんが、「今」でも十分に通じるものです。
 昔の行事に含まれる、和合の「志」に「生きる」ことを思った「朝」でした。

 来週も、礼拝は以下の日程で行われます。
 どなたでもご自由にいらして頂けますので、お気軽においで下さい。

1/24(日) 
       徳山10:45~
       柳井10:30~
       防府15:30~
 1/21(木)には、
       益田14:00~ 
        六日市19:30~です。

本日の説教要旨です。



【ルカ福音書41632節】
青年期の主は、父を助けガリラヤ中を巡っていました。閉い世界観の当時は、父ヨセフの大工の仕事は「地方巡り」が主たるものでした。身一つで地元や方々の村に出かけ、必要を聞き修繕していた。一家の主ヨセフは不在がちで、地元からは不信の対象だったのです。さて、大工仕事の他面で、主は洗礼者ヨハネの生に憧れてその生き方を模倣しました。名高い荒野の誘惑を経て、主の評判が高まります。主はナザレに帰るのです。

まず主は礼拝で聖書朗読の奉仕をします。個所はナザレの人々に「慰め」の個所だったのです。そういう経験がありますか? いつもの日曜日「たまたま」朗読の聖書が喜びのみ言葉だったり、「偶然」開いた聖書が折に叶うみ言葉だったりと。「たまたま」や「偶然」以上の計らいです。しかし、ナザレ村の人々は「慰め」と取り得ないのです。

「驚く」ナザレの人々です。これは「疑惑」の思いです。直後に「ヨセフの子」との言い回しが為されます。「自分たちとは違う」生き方は奇異の目に映った。み言葉や神の恵みよりも、語る主の出自に影響される。主の反撃も厳しい。奇跡を行えば信じるかと問い、故事を引きつつ別の地方への恵みを示唆します。主の初めての礼拝の結末は悲惨でした。礼拝時にも関わらず主は、崖から落とされそうになる。だが主は逃れます。

罵声を背に行く主の心の悲しみは深いものがあります。この悲しみは、主の十字架まで続くのです。主は、この人々の為に十字架に付き、神の慰めと自身の愛を知らせて下さいます。神さまもまた、主ご自身を一度は十字架でご自分の基に引き取りますが、復活によってもう一度私たちと共に居らせて下さいます。まことに恵みです。主がガリラヤ中を巡ったことは、主はまた私たちの週日をも巡って下さると信じ得ます。