2017年1月15日日曜日

1/15 雪と礼拝と献花とその他

本日、徳山は雪でした。
 教会の庭で、子どもたちが何やら不思議なものを作っていました。
 作品名は、「大宇宙の神秘」です。


 一転して温かい礼拝堂には、献花がなされています。
会員の誕生日を記念して捧げられたお花です。


再度、一転して寒そうな峠の写真。
牧師がいつも通る「鹿野」~「徳佐」の中間地点の峠道です。
果たしてこれは道なのか。
なお、写真は「山口県道路情報カメラ」2017年1月17日 13時15分時点のものです。

本日も徳山では礼拝が行われ、礼拝後には愛さんが行われました。

今週の予定は以下の通りとなっています。

1/17(火)15:00 徳山 聖書を学ぶ会

1/19(木)13:00 益田 小浜礼拝
      14:00 益田 元町教会礼拝

      19:30 六日市礼拝

1/22(日)10:45 徳山 礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお集まりいただけます。

本日の礼拝メッセージは以下の通りです。



【マタイ福音書313-17節】
主が洗礼を受けられたヨルダン川は、海抜が世界で一番低い死海に流れる川です。つまり主は、低い土地に自ら向かい、そこで受洗されたのです。洗礼とは罪の赦しと新たな命の獲得を意味します。主は何か罪を犯したか。主の心の深みは察し得ませんが、大切なこと、主の心に洗礼の思いが宿ったこと。なぜ主は洗礼を受けたいと思われたのでしょう。

主は「正しいことを行うのは自身たちに相応しい」と謎めいた言葉を言われます。実は、以前、マタイ福音書で「正しい」という言葉が出てきました。主の受胎発覚時でした。「夫ヨセフは正しい人だった」。この正しさとは、律法を守るゆえの正しさでなく、他者との共生、厳密には妻マリアとイエスと共に生きる決断です。それが「正しい」のです。主が語る「正しさ」も他者との共生を意味する。主は洗礼で、他者と共に生きる自身を示したのです。

実は主の受洗直前は、洗礼者ヨハネが怒っている場面です。当時の宗教者が、捧げものを所得としつつ、口頭では神の愛を語ることに直接怒るのです。本日の聖書はそのとき」との書き出しでしたね。即ちヨハネの憤りの対象はそこに居たのです。だが主は、ヨハネと共に宗教者に憤るのではなく、まず洗礼を受け、そこに居た人々と共にあることを大切にしたのです。やがて主の舌鋒はマタイ書で宗教者たちを貫きますが、まず主は、共にあるのです。

本日私たちが持ち帰りたいことは二つです。主がどのような地形で受洗され、どのような人々と共にあるかということです。高さ低さとは、単に地形だけでなく、私たちの心そのものを表す言葉でしょう。人生という道にも表れるものです。心が深みや低い所に沈む時、そのような折こそ主のみ言葉と聖霊の助けを信じたいのですね。主は自ら洗礼を希望されました。即ち、低い所に生きる人々と、同じスタートを切ったのです。感謝です。