2017年10月8日日曜日

10/8 礼拝と献花

 10/7 徳山は曇天から一転して雨天。その中を中国山脈を越えて益田市小浜に着きました。
 山陰も雨だったのでしょうか。
そして10/8、各地で30度を超えていると先ほどニュースになりました。
日差しは確かに夏です。
献花は、召天された御夫君を覚えてのものです。

先週はうっかり更新をわすれていました。

昨日、本日ともに、益田小浜、益田元町、六日市、徳山で礼拝が行われました。


聖書の学びはございます。今週、来週ともに以下の日程で集会、礼拝が
 行われます。

10/9(月)納骨の祈り

10/10 (火) 徳山 聖書の学び

10/14 (土) 13:00 益田 小浜礼拝
        14:00 益田 元町礼拝
        19:30 六日市礼拝


10/15(日)10:45 徳山 礼拝 


いづれの礼拝、集会ともにどなたでもご自由にお集まりいただけます。

本日の礼拝メッセージは以下の通りです。



【マタイ福音書1821-35節】
 「赦し」についての主の話です。「あなた方が、心から兄弟を赦さないなら、天の父も同じようになさる」主のその言葉に驚くのは、私だけでしょうか。私たちはもちろん、「赦し」の大切さについては分かっています。けれどそれが実行できるかどうかというところで、み言葉を読む度に苦悩するのです。過去のことや、直近のことが脳裏に浮かび、誰かを赦せない自分自身を知らされるのです。主は私たちを苦悩させる方でしょうか。

 「赦し」を、一つの努力義務と考える時、私たちは行き詰まります。けれど主の意図は、私たちを行き詰まらせません。先週の聖書で主は、「赦し」について二つのことを言われました。一つ目はやはり、「とにかく赦す」。二つ目は、「神さまの赦しに共に立つ」。二つ目の場合、私たちが誰かを赦すということは不要なのです。「主よ、私はあの人を赦せません。けれど主があの人を愛して下さる事に感謝します」。主は、ご自身を通して、全ての人を赦すという道を、聴く弟子たちや私たちに開いて下さったのです。しかし。

 弟子ペトロは、主の赦しのことを曲解します。主が二つの「赦し」を語られた直後なのに、「兄弟が罪を犯したら、何度赦すべきか」と、自分が誰かを頑張って赦す、という所に留まり続けます。しかも「7回までですか」と。回数を数えることは、赦しではなく我慢ですね。話をロクに聞かず、赦しを自分だけのこととしたペトロが居たからこそ、「心から兄弟を赦しなさい」それが出来るか?と主はペトロに告げたのです。主は、人が人を心から赦すことは出来ないのをご存じです。だから「神さまの赦しに立つ」と告げたのです。

 例え話の内容については、分かり易いものです。神さまから多くを赦されたのに、人はその隣人を赦せない。自分の100デナリオン、自益のみを考えると、人のことを赦せなくなるのです。私たちは、神さまから赦されている、その神さまがあの人のことをも愛して下さる。それは、言うならば、自分が頑張って赦すことではありません。主の、無限の愛に委ねつつ、いささか住みにくいこの世を、信仰をもって生きるということなのです。