2018年11月4日日曜日

11/4 礼拝と献花

11/4 徳山礼拝献花です。

 本日の礼拝では、事前にKさん、Sさんから欠席の連絡がありました。
 また、「12年ぶりに」ということで、Uさんが礼拝に集われました。

 礼拝は全聖徒礼拝(召天者記念礼拝)。教会と皆さまに結ばれているご家族が紹介されました。

 礼拝後には味ご飯とお澄ましを頂きました。

 昨日、益田礼拝と六日市礼拝の間には、山と谷を越えて初めて「深谷峡温泉」というところに出かけてきました。急カーブが連続する初めての山道走行、加えて夜間。冷や汗でした。

 今週、来週と礼拝は以下の日程で行われます。

 11/6 火曜日   午前 水原牧師 柳井 
          15時 徳山聖書研究会

 11/9 金曜日  牧師 呉 安浦で奉仕

 11/10   土曜日 13時 益田市小浜礼拝 休会といたします。 
            14時 益田教会礼拝 通常通り行われます。
            19時 六日市礼拝 通常通り行われます。

   11/11 日曜日   10時45分 徳山教会礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。


マルコ11:12-14
 写真は年を取りません。それを見る私たちは、年ごとに年齢を重ねます。召された方々は、天国で永遠の安らぎを味わっておられます。しかし地上を生きる者は、様々な出来事に直面します。召天された方も、決して平安のうちに召された方ばかりではないでしょう。心残りなこと、不安なことを深奥に秘められた方もおられたのではないかと思います。理不尽、不条理。さまざまなことに直面する方々に、私たちに、主は語ります。

 今日、主は「イチジクの木を呪う」話をなさいます。一読して思うことは“理不尽”です。主がこのような理不尽な話をなさる時には、必ず裏があるのです。その裏とはなにか。“理不尽”を思いつつ生きる方々への共感です。つまり、ここで真に理不尽なのは誰か、何か。主はこの話を通して何を語りたいのか。それは、主ご自身ではなく、当時の一部の宗教者たちの理不尽さなのです。主は、ご自身の弟子たちへの発言を通して、当時の宗教者たちこそが「実を実らせないイチジクなのだ」ということを言われるのです。

 平たく言えばこういうことです。“献金額に応じて牧師の言葉かけが違う”“献金、献身が推奨され、叶わなかったらあしざまに言われる”。宗教の拝金傾向は、古今東西を問わない状況ですが、実はそれは伝統宗教の傾向でもあるのです。ルターの時代もそうでした。献金箱への音が魂の救済を告げるなどが説かれたのです。主は、当時のユダヤ教こそ“外見は立派だが何をも生み出さない”とし、それをイチジクの木に当てはめられたのです。主はこの話を通して語ることは明白です。その明白さは、ベタニア村にあります。

 ベタニア村はエルサレム近郊にあり、エルサレムをさまざまな理由で追放された方々が住んでいた村です。主はその村に足しげく通われます。理不尽や不条理を抱えつつ生きる方々に、それはつまり私たちと共に歩むための訪問に他なりません。理不尽や不条理を抱えておられますか? それは当面、どうにもならないものかもしれません。しかし覚えて頂きたい。あなただけがそれらを抱えていないことを。主があなたと共に歩まれることを。