2019年8月13日火曜日

8/4 平和礼拝と 8/10.11礼拝

  8/11 防府礼拝後に撮った写真です。牧師館と、刈った草。
  8/11 徳山礼拝後です。
こちらは8/11 防府礼拝後。柳井Cの写真は、携帯電話を忘れたため…。

 更新が一週開いてしまいました。暑さの為、何か抜けていました。

 今週、来週の予定は下記の通りです。

礼拝時間の変更があります。どうぞご注意ください。

8/13 火曜日 15時 徳山聖研 休み

8/14 水曜日 19時 六日市C礼拝 休み

8/17 土曜日 15時 柳井C礼拝 
 
8/18 日曜日 10時45分 徳山C礼拝
       15時半 防府C礼拝

8/20 火曜日 15時 徳山聖研 休み

8/21 水曜日 19時 六日市C礼拝 休み

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。


ルカ福音書 121321
「調停人でもなく裁判官でもない(14)」。それでは主はどのような方なのか。そして問いを発した人とどのように向かい合うか。今日の聖書が語る結論は、「同伴者(共に生きて下さる方)」としての主の姿が記載されているのです。共々に、み言葉を聞きたい。

(主に)訴えるには、訴える事情があったのです。その是非を判ずることは困難です。さて、「遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください(13)」彼()の言葉を私たちはどう受け止めるでしょうか。続けての主の言葉に「貪欲に…用心しなさい(15)」とありますし、例え話は「愚かな金持ちのたとえ(16-20)」があります。主に訴えた彼()が、「金に汚く欲張りで「愚か」」なのでしょうか。しかしそれは先入観であると思います。当時、財産は長子に帰結するものでしたが、長子には弟たちをも養うことが求められました。けれどこの弟は、生活に困っていた、つまり兄から蔑ろにされたと考えられます。加えて、訴えた町の宗教者に無下に扱われ、為す術なく主に頼みに来たとも考えられます。

文章上はこの弟の背景が分かりません。だからこそ主も、弟でなく群衆に「貪欲への注意(15)」を喚起しつつ、続く例え話(16-20)をなさるのです。この金持ちの、何が「愚か」だったのか。富の使い方を知らなかったという意味で「愚か」だったのでしょう。翻訳上の問題ですが、原文を読むと「私の穀物」「私の財産」など「私の…」という言葉が何度も出て来るのです。授かり物を自分のためだけに用いる、あるいは自分の財産に固執することが問われますし、その問いは冒頭のこの弟に跳ね返って及ぶことになります。

 主は調停人ではありませんでした。しかし同伴者として、この弟と共に諸事に向かい合って行くに違いありません。貪欲、ここでは富ですが、それを抱え込む生き方ではないものを教えて下さるでしょう。富の問題を聖書が語る時、額が問題ではないのです。そして「富がないからいいや」ということでもありません。自身の祈りの課題を、自身だけに固執しない。主に差し出してゆくとき、主は「調停人」ではなく「同伴者」として私たちの課題を祈りとして神さまに執り成して下さるのです。そして、私たちは既に、与えられたものとしての富の使い方を主に教えられています。主が与えられる使命を行っていきたい。