2019年12月1日日曜日

12/1 礼拝堂と献花

  この写真は先週11/24の防府の礼拝堂です。

  これは11/28 徳山でのクリスマスツリー設置の様子です。
  11/30 防府の社会福祉法人 心促協会に出かけてきました。
そして12/1 徳山での礼拝でした。

 今週、来週の予定は下記の通りです。

12/4 水曜日 19時 六日市礼拝

12/6 金曜日 14時 聖書を学ぶ会 於:徳山 
 
12/7 土曜日 15時 柳井C礼拝 

12/8 日曜日 10時45分 徳山C礼拝
        15時半 防府C礼拝
 
12/11 水曜日 19時 六日市C礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。


マタイ福音書 2436-44
本日は待降節(アドベント)1主日となっています。「クリスマスに主イエスがこの世に来られる(アドベント)」ことを覚える主日です。毎年、待降節第一主日には「エルサレム入城」を聞いてきました。本年からは聖書日課の改訂によって、「主の再臨と終末」を聴くことになります。旧来の日課では、「エルサレムに来られる」ことを覚えて来ましたが、今年からは「再び来られる」信仰を通して、聖書から今日も恵みのみ言葉を得たい。

しかし三週間続けての終末の講解で、多少疲れがあるかもしれません。終末に関する聖書の教えは、二者択一を求める内容が多く、読み解く際には注意が必要なのです。例えば「ノアの古事(36-39)」にしても、「救われた者と流された者」その差は大きい。主の再臨が洪水につながる形で語られますので、違和を感じます。後半の「日常生活を送る者(40-44)」も同様です。この記述からは、終末に関して喜びでなく恐れを抱きます。

いわゆる「黙示文学」の背景が根底にありますので、終末の記述には択一的な言い回しがあります。確かにノアの出来事は「義人への招き」と言えるでしょう。しかし最終的には聖書は、やはり慰めに至るのです。続く「日常生活」の中で「目を覚ます」ことの具体例は不明なのです。この後主は三つのたとえ(み言葉を守り、備え、賜物を用いる)を為し、25章の結びでは「羊と山羊の仕分け」を為し、十字架に架かられます。主は神さまによる厳しい裁きを語りつつ、自身をいけにえ(山羊:スケープゴート)となされたのです。

この日私たちは、主が私たち(全ての人)の身代わりとしてお生まれになられることを覚えたい。マタイ福音書では主が、人間社会の様々な思惑に翻弄されながら誕生とそれ以後の日々を過ごされたことを記します。綺麗ごとだけではない、複雑な事情と社会の中に生きる私たちのもとに、主がお生まれになられたのです。主は終末の時だけでなく、今週を生きようとする私たちのもとに訪れて下さる。それを覚える群れで有りたい。