2020年2月5日水曜日

2/1.2礼拝と梅

 2/1の柳井礼拝所です。いつもは礼拝堂なので、今日は外から。

  2/2の徳山礼拝所です。左の写真は白梅。
2/2の防府礼拝所です。紅梅を中心にして礼拝堂をパチリ。

今週、来週の予定は下記の通りです。

2/5 水曜日 19時 六日市礼拝

2/7 金曜日 聖書を学ぶ会 於:徳山
  
2/8 土曜日 15時 柳井C礼拝 

2/9 日曜日 10時45分 徳山C礼拝
        15時半 防府C礼拝
 
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
 今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。


マタイ福音書 51-12
  聖書の個別の話を読む時、自分自身の貧しさに気付かされる時があると思います。その貧しさとは、物質的、精神的双方のことを言います。特に「(神さまを思う)霊の貧しさ、(他者を思う)愛の貧しさ」です。マタイ5章から始まる「山上の説教」などはまさに、貧しさを指摘されるものでしょう。しかし、聖書を個別にでなく連続して読み、とらえる時、貧しさを含めた自分自身が全て主の眼差しの中に置かれていることに気付くのです。

 さて、「至福の教え(4-10)」の一部は、他者に関わることへの祝福が記載されています。悲しむ者(4)、義を求める者(6)、平和を実現する者(9)、迫害される者(10)は、神の民(隣人)の苦難に関わった人々への言葉。また、柔和(5)、憐み(7)、心が清い(8)は、善なる心を持つ人々への言葉。主はこれらを「ガリラヤ巡回」を経て(23-25)、ご自分の周囲に集まる人々に語られました。そもそもこの巡回も、「人々がイエスの所へ…病人を連れて来た(24)」とあるように、人々相互の「関わり」があったことを思わされます。

 助け、関り合い、支え合う心や行動は美しく、大事なことです。しかし主は一方で、行いや実践に至らない状況をも見止められます。それが「心の貧しい人々(3)」への幸いです。「心」とは何か。直訳では「霊」となります。「霊の貧しさ」つまり「信仰の未熟」「愛の不足」を日常生活で思いつつ、歯噛みしつつ生きる人々への「幸い」が語られたのです。信仰や愛において貧しさを示した実例は、聖書で多くを上げる事が出来ると思います。

その貧しさを抱える私たちが、なぜに幸いなのか。そして「天の国を受け継ぐ」とはどういうことか。これは他の「至福の教え」とも重なるのですが、「神さまの相続人とされている」「神の子とされている」ことになると思います。具体的には、心の貧しい者と共に生き、その人々を招き、徹底的に支えて下さった主が共にあることです。この出来事、事実に立つとき、私たちの中に自ずと他者への関わりの思いが、尽きない泉のように湧き出でてくるのです。貧しさ、不足、欠如とは、不幸ではない。そこがむしろ、出発点なのです。