2025年9月24日水曜日

9/17六日市、9/20柳井、9/21防府

 

 9/21(日)防府礼拝所。午後礼拝ですが、やはり喉元を緩めないと声が出ません。

 それほど蒸し暑い午後です。

 9/20(土)柳井礼拝所。

 この日は確か、雨交じりだったような気が・・・。

 9/17(水)六日市礼拝所。

 秋桜が咲き始めました。涼しいということ、でしょうか。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

防府礼拝所の、礼拝開始時間が長らく間違っていました。訂正いたします。

9/24 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

9/27 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

9/28 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝 

10/1 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

10/4 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

10/5 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝 

9/21日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。

聖霊降臨後第15主日 説教 

ルカ福音書161-13節 「神と隣人のための富」

水原一郎

① ルカ福音書15章で、主イエスは一連のたとえ話を語られました。見失った羊を探す羊飼い、銀貨を探す女、そして放蕩息子を迎える父──いずれの物語も、失われた者を見出し、回復しようとする神の愛を鮮やかに示しています。そこでは、人間の制度や常識を超えて働く、神の深い憐れみが語られていました。


② ところが、それを聞いたファリサイ派の人々は、その意味を受け取ろうとしませんでした。今日の話を受けた箇所では、「金に執着するファリサイ派が、イエスの話を聞いてあざ笑った」と14節に記されています。主が語られた神の愛の真実は、彼らの心には届かなかったのです。今日の箇所では、彼らに違和感を覚えさせた言葉が登場します。「不正にまみれた富で友を作れ」(16:9)主が、不正を奨励しているかのようにすら聞こえるのです。


③ このたとえ話に登場するのは、財産を他人に委ねていた金持ちと、その財産を管理していた使用人(管理人)です。主人は、管理人が財産を浪費しているとの噂を聞き、帳簿の提出を命じて、事実上の解任を通告します。追い詰められた管理人は、主人に借りのある人々の負債を勝手に減額し、将来に備えて恩を売ろうとします。ところが、主人はこの行為を責めるどころか、「この不正な管理人の抜け目のないやり方を褒めた」管理人の将来を見据えた機転に感心します。主イエスは、「この世の子らは、自分の仲間には、光の子らよりも賢い」。人々の処世術の鋭さを見ておられるのです。


④ ここで鍵となるのが「不正にまみれた富」という言葉です。原語に照らして考えると、「不正に得た富」と限定するよりも、「不正と結びつきやすい富」と理解する方が適切です。主は、富そのものを汚れているとは語っておられません。むしろ、富とは人の欲望を刺激しやすく、容易に不正へと傾かせる、危うい力を持つという現実を、主は見ておられるのです。この管理人も、自らの立場が危うくなるなかで、富を自己保身の手段として用いただけでした。主は、将来を見据えた知恵と対応力を見られたのです。


⑤ しかし主イエスは、私たちをさらに深い教えへと導いていかれます。主は言われます。「不正にまみれた富で友を作れ。そうすれば、富がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れられる」。ここで主が語っておられるのは、富を自己目的のために用いるのではなく、他者との関係のために用いるという姿勢です。富が自分のためだけに使われるとき、それは「富に仕える」こととなります。しかし、それが他者に向けて用いられるとき、それは「神に仕える」こととなる。まさにここに、信仰者としての姿勢が問われているのです。この視点から改めてルカ15章を振り返ると、羊を探す羊飼いも、銀貨を探す女も、息子を赦す父も、それぞれ「自らの時間・労力・富」を惜しみなく他者のために差し出しました。


⑥ では、私たちが他者のために差し出す「富」とは、具体的に何を指すのでしょうか。それは金銭に限られません。時間、労力、知恵、そして祈り──それらすべてが、神から私たちに託された賜物です。これらを用いることによって、私たちは他者との真実な交わりを築き、神の御心に仕えることができるのです。主の教えを心に刻み、日々の生活のなかで、それぞれに託された「富」を神と隣人のために用いましょう。