2026年2月24日火曜日

2/18イースターカード、2/22防府

 

2/22(日)防府礼拝所の献花。カラーの鉢植えです。

めずらしい色合いのカラーでした。

2/18から、教会は四旬節に入りました。

一足早く、イースターカードの用意を始めます。

四旬節の間、祈りをもってお手紙を準備するのです。


今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。


2/25 水曜日 16時 六日市チャペル礼拝 

2/28 土曜日 14時半 関係者の記念会

       15時 柳井チャペル礼拝 

3/1 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝

3/4 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

3/7 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

3/8 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

2/22(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 

四旬節第1主日 説教 

マタイ福音書4章1節-11節 「荒野を先に歩まれた主」

水原一郎

① この日の御言葉は「荒野の誘惑」です。マタイは、主イエスが「誘惑を受けるために」荒野へと向かわれたと語ります。マルコやルカが語るような、突然の試練に巻き込まれる姿ではありません。あえてその場所へ踏み込んで行く主イエスの姿が、ここにはあります。マタイのこの独特な描き方は、主イエスが“向き合う現実から逃げない方”であることを示しています。私たちは日々、マルコやルカの語る主イエスのように、突然の困難に巻き込まれることもあります。またマタイの主イエスのように、困難を知りながら、役割や責任のために、その場に行かざるを得ないこともあります。今日の主イエスは、私たちと同じ道を歩まれます。そのことを聞きましょう。


② 多かれ少なかれ、私たちは「固定観念」や「役割」を期待されながら生きています。「父親なら」「母親なら」「年長者なら」「若者なら」。人が作り上げた“こうあるべき”の像は、私たちの心を縛り、しばしば疲れさせます。与えられた役割を果たすことは大切です。しかしそれが「固定化された期待」となり、私たちを押しつぶすことがあるのも事実です。主イエスを誘惑する悪魔の言葉は、「神の子なら」というものでした。この言い方は、まるで「男なら」「女なら」「親なら」「指導者なら」と言われるように、あるべき“役割”を押しつける響きを持っています。当時の人々が抱いたメシア像──それは「力あるメシア」でした。奇跡による加護を与え、ローマを倒し、民を支配し導く英雄。その期待を悪魔が先んじて突きつけたのです。「神の子としてこうあるべきだ」と。


③ しかし主イエスは、その“あるべき姿”を問う悪魔に、問い返すのです。力で支配するメシアでも、奇 跡を誇示するメシアでも、劇的な解放者でもないことを示します。神さまとの関係において生きる道を選ばれます。「人はパンだけで生きるのではない」「主なる神を試してはならない」「主なるあなたの神を拝み、ただ神に仕える」。主イエスは、世間の期待によってではなく、父なる神の御心に従う自由を生きられました。


④ この主イエスの姿は、役割の重みに疲れた私たちを深く慰めます。私たちが誰かの期待通りに生きられない時、また期待が重すぎる時、主イエスは「その重荷を知っている」と言われます。イエスは、押し付けられた役割や固定観念に縛られた者を解放するために来られました。「もっと強くあれ」「もっとできるはずだ」「こうすべきだ」──そんな声に押されて心が疲れたとき、イエスは「あなたは、わたしの眼には高価で尊い」と語られます。「弱さを見せられない」孤独な働き、「期待が膨れ上がる」中での葛藤。その日々を送る私たちに、自由な息を回復してくださるのが主イエスです。


⑤ 私たちが生きる毎日は、時に“荒野”のようです。何も見えず、何も聞こえず、孤独だけが広がるように思える日があります。けれども、荒野はただの無意味な場所ではありません。そこは、主イエスが先んじて歩まれた場所です。主イエスは、私たちが入る前から荒野の風を受け、私たちが味わう前から孤独を知り、私たちが体験する前から渇きを受け取っておられます。そして、その荒野を神との交わりによって通り抜ける道を、先に開いてくださいました。だから、私たちは荒野を独りでは歩きません。役割の重さに疲れても、期待に押しつぶされそうになっても、主イエスは「わたしはあなたの先を歩いている」と語られます。主は今日も、私たち一人ひとりに静かに寄り添い、いのちの言葉を与えてくださいます。