3/10(火)ジャガイモの作付け用意を始めました。
3/9(月)今年はグリーンピースに挑戦します。
3/10(火)徳山礼拝所の朝。
3/8(日)防府礼拝所。今度は道路がわの桜が咲きました。
3/7(土)柳井礼拝所。
3つの礼拝所では、「世界祈祷日」を覚えての祈りが捧げられました。
今週以降の行事は、以下のとおりです。
いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。
3/11 水曜日 16時 六日市チャペル礼拝
3/14 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
3/18 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝
3/21 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
3/15 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び
10時45分 徳山チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
3/8(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。
四旬節第3主日 説教
ヨハネ福音書4章5節-42節 「のけ者から、必要な人へ」
水原一郎
① 今日、福音書に登場するサマリアの女の背景は「孤独」というものでした。彼女は「正午ごろ」、井戸に水を汲みに来ました。これは、単なる時間の描写ではありません。当時、水汲みは朝夕の涼しい時間帯に、女性たちが連れ立って行うのが普通でした。正午の井戸には、誰もいない。彼女は人目を避けるようにして、誰とも顔を合わせずに水を汲もうとしていたのです。つまり、村の中の「のけ者」でした。
② なぜ、彼女はそんな目で見られたのか。聖書は、彼女に「五人の夫がいたこと」、そして「今の相手とも結婚していないこと」を記しています。どのような事情があったのかは、もはや分かりません。正確な事情は本人が知るのみです。ただ、憶測は先立ちます。彼女は人々から「結婚という関係を築くことに失敗した女」や「期待される役割を果たせなかった女」という烙印を押されていたのです。そんな彼女に、イエスは語りかけます。「水を飲ませてください」と。「あなたは、私に水をくれることができる。あなたには、それができる力がある」と言うのです。のけ者、恥の女、誰からも相手にされないと思っていた彼女に、「あなたは必要だ」と告げるように、なのです。
③ なぜ、主イエスはこの女性にこのように向かい合うのでしょうか。4節には、主イエスの行動が「サマリアを通らねばならなかった」ものと語ります。サマリアという土地が、当時のユダヤ社会の枠の中で、出来るならば避けることが望ましいこと、しかし道路の都合上、通らざるを得ない場所であるという意味です。ただそれは、当時の世界観の説明であるだけです。主イエスは、サマリアを通ることに戸惑いはなく、律法をこの女性との出会いに際し振りかざすこともなさいません。要は、「失敗した女性」という見方をしないのです。主イエスはこの女性と出会い、その心にみ言葉を語ろうとされるのです。なぜこのように向かい合うのか。それは、「神は愛」だと示すためなのです。
④ かつて夜、主イエスのもとを訪ねたニコデモにも、主イエスは3章で「神は愛」と示しました。同じように、この状況に渇く女性に主イエスは「神は愛」と示すのです。ことに「神は、霊と真理をもって礼拝する者を求めておられる」。神は、「特別に正しい人」や「過去に傷がない人」ではなく、「正直に渇きを差し出す人」を求めておられるのです。彼女はそのことを悟ったとき、もはや井戸の水には執着せず、水瓶を置いて町へ駆け戻りました。そして人々に「イエスに会ってください」と語り始めました。かつては人目を避けていた彼女が、今は人々の前に出て、自らの口で語る人に変えられました。
⑤ 今日の私たちにも、同じ福音が語られています。主イエスはそんな私たちに、「水を飲ませてください。私は、あなたを必要としている」と語りかけてくださいます。私たちが抱える渇き、孤独、過去の傷も、すべてをご存じのうえで、神は私たちを必要としてくださる。なぜなら「神は愛」だからです。だからこそ、私たちもまた、周りの人の「水を飲ませてください」という声に耳を傾けたい。それは、大きなことではなく、小さな助けで十分です。たとえば、誰かの悩みに耳を傾けること、孤独な人に声をかけること、「あなたはここにいていい」と伝えること。私たち一人ひとりが、**「必要とされる喜び」を知るとき、心の渇きは癒され、井戸の水ではなく、「命の水」**によって潤されていきます。主は今日も、私たちに語りかけています。「水を飲ませてください。あなたは、必要な人です」と。その招きを、静かに心に響かせたいと思います。アーメン。




