2026年6月16日火曜日

6/10母校、6/13柳井、6/14徳山、6/16防府

 

6/16(火) 防府礼拝所の周辺の枝払い。

一カ月もしないうちに伸びました。

 晴れていなく、雨でなく。ちょうどよい気候。

 一カ月先の天候と暑さと草の伸び具合は、考えたくありません。

 6/15(月)徳山礼拝所、牧師室のポインセチア。

 伸びきっています。

 

 6/13(土)柳井礼拝所。

 ボタンでしょうか?

 6/10(水)東京での会議終了後、時間があったので、30年ぶりの母校。

 ふと、自分が来た道を歩きたくなったのです。

 文字通りの意味では、板橋から北池袋/大塚まで。

 抽象的な意味では、人生の振り返り。


 今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。


6/17 水曜日 17時 六日市チャペル 礼拝 

6/20 土曜日 15時 柳井チャペル 礼拝 

6/21 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル 礼拝

       15時30分 防府チャペル 礼拝

6/24 水曜日 17時 六日市チャペル 礼拝  

6/27 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

6/28 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 休会となります。 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

6/14(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 


聖霊降臨後第3主日 説教 

マタイ福音書9章35-10章4節 「羊飼いは、立ち止まらない」

水原一郎

① マタイ福音書935節には、主イエスのお姿が描かれています。主イエスは町や村を巡り、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病を癒しておられました。主イエスの教えは神の御心を示していました。内容は、神の国の近づきです。その具体例が癒しでした。神さまはそば近くにおられることを、主イエスは言葉と行いで示されたのです。ふと、主イエスは群衆を見られました。ただ眺めたのではありません。人々の姿を深く見抜かれたのです。聖書は「弱り果て、打ちひしがれていた」と語ります。内側までも疲れ切っていたのです。そして主イエスは、「深く憐れまれた」のです。


② この「深く憐れまれた」という言葉は、心の奥深く、内臓が揺さぶられるほどの強い憐れみを表す言葉です。では、なぜ人々はそこまで疲れ果てていたのでしょうか。病や貧しさ、生活の苦しみがあったでしょう。そのことは私たちも分かります。しかしマタイ福音書は、それだけではなく、宗教的な重荷の問題をも描いています。主イエスは繰り返し、律法学者やファリサイ派の人々のあり方を問われました。宗教者は「憐れみではなく、いけにえ」を重んじていました。人に「重い荷物」を負わせながら、自らはそれを担わない。そのようなあり方の中で、人々の心・内面は疲弊していたのです。9章の「憐れみ」と、マタイ23章の「災いだ」という厳しい言葉は、別々の話ではありません。羊が苦しんでいるからこそ、主はその苦しみを生み出すあり方を問われるのです。


③ しかしこの言葉は、私たちを安全な場所から誰かを批評する立場には置きません。私たちはまず、憐れみを必要とする羊です。疲れ、祈れず、み言葉が遠く感じられることもあります。しかし同時に私たちは、家庭や教会や職場で、誰かに影響を与える立場にも立っています。自分では正しいと思っている言葉や態度を示します。しかしそれが、知らず知らずのうちに、誰かにとって重荷となってしまうこともあるかもしれません。だからこの箇所は、ただ単に「悪い牧者を批判する言葉」ではないのです。私たち自身はどうなのでしょうか。この言葉は、私たちを神の憐れみへと立ち返らせるのです。


④ その憐れみは、やがて十字架へと向かいます。主イエスは、ここで「弱った羊」である人々を慰めるだけではありませんでした。また、「当時の宗教者」の偽善を告発するだけでもありませんでした。人々の迷いも、牧者の歪みも、人間の宗教の限界も、そのすべてを背負って、十字架へと進まれたのです。そこでは、人間の罪が暴き出されます。しかし同時に、神の憐れみもまた、最も深く現されました。十字架とは、憐れみが現実の罪と正面から向き合った場所です。復活とは、神の憐れみが死によって閉ざされなかったことのしるしです。真の牧者は、今も生きておられるのです。


⑤ その主イエスは今日「収穫は多いが、働き手が少ない」と語られます。だからまず、「収穫の主に願いなさい」と命じられるのです。どのような「働き手」なのでしょうか。まず求められているのは「祈りの手」です。祈りとは、遠くから眺めることではありません。主の憐れみの働きに、自分自身も加えられていくことです。主イエスは祈りを、主の働きに加わるものなのだ、と示されます。私たちは、完全な働き手だから遣わされるのではありません。憐れみを受けた者として、復活の主が生きておられるゆえに、用いられていくのです。疲れを知らない人としてではなく、疲れつつ、神の憐れみに生きる者として歩み出すのです。だから私たちは「弱った手」でも、誰かのために祈るのです。