2026年11月4日水曜日

10/30徳山、11/2防府、11/2徳山、11/3宇部

 

11/3(火・祝)宇部教会で「るうてる秋の大会」が行われました。

平良愛香牧師(日本基督教団)から「沖縄の声を聴く」というテーマで、

過去と現状を伺いました。下関教会から柳井礼拝所まで、45名の出席でした。

11/2(月)ご召天者のご家族から連絡を頂き、

祈祷会が行われました。ご召天者から見て二人のお孫さんによって、

お写真のもとに可愛い花束が捧げられました。

11/1(日)防府礼拝所。

召天者記念礼拝、20名の参加でした。

毎年見えている方がご病気になられ、一抹の寂しさを覚えました。

10/30(金)徳山礼拝所。

召天者記念礼拝の用意を終えて写真。

10/28(水)六日市礼拝所の柿の木。

裏年の柿の木とは言え、秋の空に映えるものです。


今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。


11/4 水曜日 17時 六日市チャペル  

11/7 土曜日 15時 柳井チャペル 礼拝 

11/8 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル 礼拝

       15時30分 防府チャペル 礼拝

11/11 水曜日 17時 六日市チャペル 礼拝 

11/14 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

11/15 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

11/1(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 


全聖徒主日 説教 

詩編43編 「いつも喜んでいなさい」

水原一郎

① 全聖徒主日を迎えました。この一年の間、シオン教会では一人の姉妹が主のみもとへ召されました。百一歳で天に召された吉原さんです。私自身は、そのご生涯に深く交わったわけではありません。しかし、防府礼拝所の集会室に残る「初めに言があった」、徳山礼拝所の玄関ホールの「神は愛なり」という文字を見るたびに、一人の信仰者が神の言葉を大切にし、証しして、そして生かされて歩んだ人生を思います。吉原さんのことをご存じの方も、いずれ少なくなるのかもしれません。しかし、神の御言葉は残ります。そして、その御言葉もまた、人々の心に神の存在を残していきます。


② 詩編四十三編の詩人もまた、平穏の中にいた人ではありません。2節「なぜ、私は…嘆きつつ…」。この「嘆く」とは元々の言葉では「喪に服する」という意味の言葉です。大切な人を無くし、神に叫び、悲しみの中にあったのが詩編の詩人です。しかし、詩人が願ったのは、まず苦しみを取り去ることではありません。困難な中であっても、「あなたの光とまことを遣わしてください。それが私を導くのです」と祈ることです。


③ 徳山礼拝所に残されている「神は愛なり」という御言葉は、どのような背景で生み出されたのでしょうか。ヨハネの手紙1は、歴史的な成立についてははっきりとしたことは言えません。ただ、教会の中で人々が仲たがいした現実を踏まえて書かれています(2章19節)。その中で「互いに愛し合うこと」が繰り返され、前提として「神は愛」と言われるのです。つまり、この言葉は単に「美しい言葉」という意味だけではなく、困難な現実をも踏まえているものです。「初めに言があった」も同じです。ヨハネ福音書の時代の教会も「暗闇(1:5)」、「受け入れない人々(1:11)」という背景がありました。決して陽気ではいられない日々、数々のことを抱える日々の中に、「神の言葉であるイエスがおられる」と語るのです。聖書のみ言葉は、その背景を知れば知るほど、当時の人々が私たちと同じような「深刻さ」を担っていたことが分かるのです。


④ 今日お読みした詩編四十三編や聖書には、それぞれ厳しい背景の中で書かれたことを告げています。そしてそれは、今日私たちが覚えている「目の前のお写真の方々」にも重なってきます。お一人おひとりに、喜びの日も、悲しみの日もあったことと思います。今日私たちは、召された方々を思い起こすと共に、この詩編四十三編の祈りを思い起こしたいのです。「あなたの光とまことを遣わして下さい」と。それは、既に召された方々の魂の平安を覚える言葉でもあります。加えて、今なおこの地上を歩む私たちの旅路を祈る言葉でもあります。その私たちもまた「厳しい背景」を担うものなのです。


⑤ 召されたお一人おひとりとは異なり、私たちはいまだ、旅の途中にあります。詩人も最後に、「わが魂よ、なぜうなだれるのか。神を待ち望め」と、自らの魂に語りかけました。旅の途中で「うなだれる」ことがあったのでしょう。しかし詩人は、その中で自分を導く神を待ち望んでいるのです。導きや支えを願うのです。全聖徒主日は、確かに召された方々を見つめる日です。しかし、召された方を通して、生者も死者も、ただ主イエスの光によって神のみ基へ導かれることを喜ぶ日です。実は今日の詩編4節には、「私の神を喜び祝う」とあります。かつては「喪に服する」詩人が、神の導きを受け喜びに帰ります。私たちもまた、この礼拝からそれぞれの生活へ遣わされます。「うなだれること」が訪れる人生の日々の中で、神さまの光を受け、日々を生きるのです。