花のことは分かりませんが、おそらく季節の花なのでしょう。
感謝です。
先週、教会鐘つき堂の前の草引きが行われました。
ご夫妻が一生懸命にしてくださいました。
また、草引きだけではなく、強い草も植えていただきました。
成長が楽しみです。
本日も、徳山、柳井、防府での教会の礼拝はそれぞれ行われました。
徳山は本日、白ご飯と具だくさんのお汁でした。
お代わりがしたかったのですが、残念。
今週、来週と以下のように行事があります。
9/20(火)徳山C聖書の学び
15:00~16:00
台風の進路で休会する場合もあります。
9/22(木)には、
益田にて、小浜礼拝13:00~
益田教会では 14:00~ 礼拝、
六日市礼拝 19:30~ です。
9/25(日)徳山10:45~
柳井10:30~
防府15:30~
いずれの礼拝、集会にもどなたでもご自由にお越し頂けます。
本日の礼拝説教のまとめです。
【ルカ福音書16章1-9節】
会計総決算の日即ち管理人には職務最終日です。私たちにはこれは自身の人生にたとえられるでしょう。この世に生まれた人は、誰もが別れる日が来ます。誰が自分の人生に無駄は無いと誇れるか。時間の無駄使いや不正はないと誇れるか。管理人は、他者に恩着せをすることで、離職後の場所を作ろうと試みます。この話の意図を知りたいのです。
実はこの例え話は、全く反対に読み得ます。一、管理人は不正者という従来通りの読み方は、解説が要りません。ニ、管理人は公明正大という読み方も出来る。無駄使いの真偽は不明であくまでも告げ口からです。土堀を恥じるのも、自らに偽りが無い故でしょう。そして証文偽造。当時は利息禁止(出22申23)でしたが、現実は利息を付けて金貸しをしていました。管理人は不当利得分を消去。不正者は管理人でなく主人というものなのです。
ですからこの例え話では何が、誰が不正者か釈然としません。主は意味不明な例え話をなさる方ではない。この話の要点は、不正の勧めでなく、友を作ることす。この友とは地上の友人ではない。主が友なのです。私たち自身は、無駄が多く、不正に手を染めることが多い。煩悶が多い私たちです。主を友と為して良いか。相応しくない私がここに居る。
ルターは大胆にもこの管理人を主と解釈しました。つまり、管理人の無駄使いの真偽は不明です。しかし告げ口で管理人は決算を迎え、主は十字架を迎える。迫る決算を前に主は赦してゆく。主の生き方と重なります。私たちの日々の営みは果たして主の御心に叶うかどうか。それは不明だが、無駄使いが多く知らずに行う不正も多いのです。主はそんな私を友と為すのです。罪びとを招くのがイエスさまなのです。それが、この世にあって命を与えられている「光の子」としての生き方なのです。やがて永遠の家が私たちを待つのです。