2016年9月4日日曜日

9/4 礼拝と献花


 9月初めの礼拝、聖餐式が行われ、多くの兄弟姉妹が教会に集いました。

 愛さんも再開し、本日は天ぷらうどんでした。3杯お代わりした人もいます。

 本日の献花は百合とオシロイバナ。オシロイバナは教会庭に咲き誇っています。

 今週、来週と以下のように行事があります。

 9/6(火)徳山C聖書の学び



 9/8(木)には、
       益田にての 14:00~ 礼拝、 
        六日市 19:30~ です。

 9/11(日)徳山10:45~
       柳井10:30~ 
        防府15:30~


 本日の礼拝説教のまとめです。




【ルカ福音書142533節】
 家族を憎み、計算高く計画し生きる。不能ならば弟子ではない。これは主の言葉の中でも恐ろしいものです。憎む」とは、主体的な自身の感情です。自ら進んで憎むことはまずないでしょう。しかし原因と結果としての憎しみがあります。わだかまりがあって、それが憎しみに到達することは少なからずあります。それは永遠には続かず一過性のものなのです。渦中の時も和解を信じたい。そこで主の「憎め」の言葉の真意が慰めになります。

 言うまでもなく文字通り実行していたら大変なことです。この憎め」の勧めは誇張した表現で、意味は33節と一緒です。自身の持ち物ではないということです。命も家族も全ては己が手にはない。捨てる、憎むとは委ねると同じ意味なのです。経験がありますが、家庭内の騒乱の主とした原因は自身でしょう。言う本人は良かれと思うのです。だがそれが当人の願いとは違うのです。人は物心付く自分から徐々に自身の十字架を担います。私たちは他者の十字架にあれこれと思う。自身のすら担いきれないのに口を出すのです。

 中後半の例え話は、自身と他者をごちゃにすることへの戒めです。塔を建てる話。予算不足での強行で嘲りの対象となるのを避けるため、自身の持ち物とそれ以外を区別する必要です。戦争の話も同様。手持ちは一万、敵は二万。無理なら自身の誇りを捨てて降伏する。自身の兵隊や命を相手に委ねるのです。捨てる、手放す、任せるへの勧めです。

スペインに未完の塔」世界遺産のサグラダファミリア教会です。資金不足が遅延の理由です。人の計画は中断を余儀なくされるものです。しかし、時を待ち、委ねつつ建築を進める。その心持ちで建設は継続されています。あれこれと案ずる時があります。だが神は全てを良きに計らうのです。だから、全てを自身で抱えている人の隣人となりたいと思います。