・・・うまく見られませんですね。すみません。
六日市クリスマスの、ある会員さんと手製のリース
六日市クリスマスの祝会の食事。ほとんど手製のお惣菜。
ただし、からあげはお店のもの。
ある女の子。いっぱい取ったね。
ある男の子。この人はおにぎりを三個頂きました。
徳山の献花。
徳山の洗礼盤。なんと、大工の会員さんの手製の盤です。
本日の受洗者はこの盤から受けられました。
徳山のアドベントクランツ。
ヤドリギ。この木の下では誰でもキスして良いとか。
本日も徳山Cでは礼拝が行われ、礼拝の中では洗礼式が行われました。
礼拝後にはクリスマス祝会が行われました。
本日の礼拝メッセージは以下の通りです。
【ルカ福音書2章13-23節】
聖書のクリスマス講話は、実は不条理や悲嘆的要素を含むのです。マタイ福音書は、東方の賢者が贈り物を携えて来る喜びの場面ですが、周辺が騒がしいのです。王降誕の知らせを聞いたヘロデ王が、自らの地位保全を思い、ベツレヘム付近の嬰児の虐殺を実行に移すのです。主が生まれたのはそういう環境でした。まことに主は、愛憎渦巻くこの世に降誕されたのです。
聖書冒頭で、占星術の学者は自国に帰ります。実は、彼らがそもそも過ちを犯したのです。主の誕生をこともあろうにヘロデに知らせてしまう。だから天使は夢でヨセフに逃亡を勧めます。主や父母は守られた、聖書は、そのことは旧約の成就と加えます。もぬけのカラのベツレヘムを捜索させられたヘロデは怒ります。そしてベツレヘム周辺の二歳以下の子を殺す。それも聖書の成就と語ります。親たちにとっては、ヘロデの凶行は慰めようのない痛みです。親たちは誰を憎めば良いのか。ヘロデに怒りをぶつけることは出来ない。出口がない悲しみです。
主はその後、エジプトからユダヤへ帰還しますが、王の後継者の本拠地ユダヤへは帰れず、父の故郷ガリラヤへ帰ります。主の誕生から直後まで、聖書の預言の通りに守られました。守られた主とは対照的なのが、嬰児やその親たちの気持ちです。ヘロデを憎み、道を誤った学者を憎み、その大本である主を憎むのでしょう。祝福の内に生まれるはずだった主は、誕生から重荷を負うのです。神さまは、生まれたての主に、親たちの心を負わせるのです。
神と主との関係は父と子です。だが父子にしては冷たいですね。送った早々、重荷を負わせます。しかし、主は世の重荷を担うために生まれたのです。さあ、世の悲しみや悲嘆を抱えている私たちは、だからこそこの主に、一層委ねて良いのです。主が共にある、その主の知らぬ憂いや悲しみは何もない。その主が、この世に生まれたのがクリスマスなのです。