「星は何を導くのか」が来週の説教題です。
今年の始まりは日曜日、礼拝が行われ、その後はお雑煮を頂きました。
お雑煮の前にはもちろん、聖餐式を伴う礼拝が行われ、祝福式も行われました。
本年もこのページを通して、教会のさまざまな情報を発信します。
よろしくお願いします。
本日の説教要旨です。
【マルコ福音書13章35節】
酉年を私たちは迎えました。鶏は聖書にも干支でも登場する動物の一つです。有名な場面があって、それはペトロの裏切り発覚時です。主を否定すると即座に鶏が三度啼くのです。それ以外にも鶏は登場しますが、それが今日の聖書です。鶏が明け方を告げる鳥との記載です。脈絡としては、主の到来が何時かという問いへの応答に、鶏が出てくるのですそれではその主の到来とは何を表すのか。一言で言えば、「終末」のことを指します。
終末とは、今日では二つの意味があります。世の終わり、そして私の命の終わりです。主の時代は世の終わりとしての意味が強かった。今私たちは、命の終末は望みませんが、予期せず立たされることがあります。命の終末とそこへの慰めは人類の普遍的な課題と望みでしょう。私たちも、やがて自身の終末を覚える者です。その私たちに語る聖書です。
それが何時かは不明です。主も具体的刻限を言及しつつ明言は避けます「夕,宵,明け方,鶏鳴時分」と。当時は一日の始まりは日没でした。ある者は若年時に、ある者は壮年時、ある者は老齢時に、ある者は全うする。それを知りつつ私たちもこの年を生きる者です。
具体的日時は不明です。だが神は不明のままで私たちを過ごさせません。神共にあることを告げます。それは旧約から新約でも明らかです。福音書で鶏はペトロの裏切りを告知。だが教会はその鶏の卵を用い、復活と言う新生の象徴としてとらえるのです。殻は人間の傲慢さ、だがその中に命があります。私たちも殻を持つのですが、神はその私たちの中に命を供与するのです。ペトロの過ちと裁きは雄鶏が告知し、雌鶏は赦しを供与するのです。ペトロも赦され伝道者として用いられます。鶏、即ち酉年に私たちは改めて自身の裁きと赦しを想起したい。赦しと愛の内に、この年を生きたい。今年もみ言葉に養われましょう。