春らしい陽気の本日、礼拝の件かもまた春めいています。
こちらも献花です。あでやかな印象ですね。
本日も徳山教会では礼拝が行われました。
礼拝には本日、近隣のご夫婦、連れ立って来られた3名の方とも礼拝を守りました。
礼拝前には自家用車の祝福式も行われました。
礼拝後には愛さん。一升炊いたご飯があっというまに無くなりました。
今週も徳山、益田、六日市では以下の礼拝、集会が予定されています。
3/28(火) 徳山 聖書を学ぶ会は休会となります。次回は4/4(火)15時からです。
3/31(土)13:00 益田 小浜礼拝
14:00 益田 元町礼拝
19:30 六日市礼拝
4/2(日)10:45 徳山 礼拝
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお集まりいただけます。
本日の礼拝メッセージは以下の通りです。
【ヨハネ福音書9章13節-25節】
四旬節も後半の時期です。聖書に登場するファリサイ派は、人気を集めた主に嫉妬していました。前の段落で、主は盲人を癒し晴眼者とします。癒しの日は安息日でした。主のお働きは人々の知る所となります。人々はファリサイ派の顔色を案じて、ファリサイ派に言いつけます。晴眼者はファリサイ派の家で尋問されます。その目的は、主を罪人と証言させることです。
第一尋問は13-17節。第二尋問は18-23節。第三尋問は24-25節。段々と強い調子になっていきます。だが晴眼者はしなやかで強いのです。この強さの源は何でしょうか。晴眼者の強い理由は二つあると思います。①主による癒し ②主による「見えない状態は神の栄光の顕現」との宣言です。癒して下さった主への感謝として強くしなやかになった。加えて、病を「神の栄光の顕現」と見るその見方にも嬉しかった。感謝の思いが溢れたのです。
これまで晴眼者は、町はずれで物貰いすることが仕事でした。眼も、本人や両親の罪の結果と言われ続けたのです。因果応報思想で自身や両親や先祖を呪っていたでしょう。だが主は、神の栄光と語ります。当人がその不思議な言葉の意味を問い、反復したでしょう。なぜ「盲人の状態が神の栄光か」と。因果応報から来る自己追求、自己叱責を止めさせることが主の意図することでした。晴眼者は新しい生活が始まる…否、無理なのです。
ファリサイ派の為すべきは晴眼者への完治宣告と身体の解放ですね。でも彼はファリサイの家から追い出されます。完治しても、盲人という立場のままという不思議な社会でした。そんな彼を主は共に生きるものとされます。私たちは、自分自身の状況をどう思うか。責め、呪う時もあるかもしれません。だが神は私たちを用いるのです。神さまの栄光の顕現として用いるのです。神さまが皆さんに何を為すか。共に祈り、考え、用いさせて頂きたい。