10/22 徳山礼拝堂です。照明を落としての撮影です。影が十字架を照らしています。
先週も、うっかり更新をわすれていました。
昨日、本日ともに、益田小浜、益田元町、六日市、徳山で礼拝が行われました。
聖書の学びはございます。今週、来週ともに以下の日程で集会、礼拝が
行われます。
10/24 (火) 徳山 聖書の学び
10/28 (土) 13:00 益田 小浜礼拝
14:00 益田 元町礼拝
19:30 六日市礼拝
10/29(日)10:45 徳山 礼拝
いづれの礼拝、集会ともにどなたでもご自由にお集まりいただけます。
本日の礼拝メッセージは以下の通りです。
【マタイ福音書21章33節-44節】
先週の「温情のブドウ園」とは、主の語る対象も、お語りになった場所も違っています。しかしお語りになるのは主です。今日の聖書でも主人は「温情」をブドウ園と働く農夫たちに注ぎます。そもそも農夫たちは主人によって雇われた人々。主人は働きやすいように整備をします。しかし農夫たちはその主人の温情を仇で返します。救いようのない話です。
この話を私たちはどう読むか。主のお気持ちを汲めば、これはユダヤの昔から今に遡る話と読むのが妥当です。神は天地を想像し、それを人の管理に任せた(創世記)、しかし人は背信を繰り返し、預言者たちを侮辱する(預言書)、ついに農夫は主人の独り子も殺害する。主がこれから辿られる道を前もって語られたということです。話の場所はエルサレム神殿、目前には宗教者たちが居ますから、語る主も聞く宗教者たちも、緊張の面持ちでしょう。
ユダヤの昔の歴史は上の通りです。でも私たちは、この聖書の話をどのように自身に適応するでしょうか。「預かり物」で考えてみましょう。農夫が主人から預かっていた「ブドウ園」は、ユダヤの国土や人々でした。私たちが神さまからお預かりしているものは何か。ルターの讃美歌267、4節の原詩は「我がたから、我が妻子」と語っています。「自分自身」もそうですね。大きな所では、地球や環境も然りでしょう。大切な預かり物なのです。
それらを「ほしいまま」にしている人間社会です。不遜な農夫は実は私かもしれません。主の憤りと悲しみは私たちに向いていることを自覚したい。それだけでなく、聖書最後の「隅の親石」にも注目したいと思います。そのような不遜な農夫のためにも、主は「要石」となって下さるのです。主が引用した詩編には「だから、今日を喜び祝おう」と続くのです(詩編118:22)。「今日を喜ぶ」それは例えば、朝起きたときや寝る前に感謝の祈りを為すことで得られるものです。それが「預かり物」を有効に用いることです。