2017年11月12日日曜日

11/11.12 礼拝と献花と海

 11/11の益田小浜の海。この日、小浜の礼拝出席者が「北海道や東北では大しけのようですね」
と言われましたが、その低気圧の余波をくらい、小浜海岸も大荒れでした。

  11/12の徳山C礼拝堂献花。十字架の下に花があるようです。

11/12 礼拝堂外の廊下の献花。こちらも十字架のたもとに花があります。

 11/11.12ともに、益田小浜、元町、六日市では礼拝が行われました。
 
ことに、六日市礼拝前には、急きょ滋賀県大津に転居が決まったお宅でも礼拝が守られました。

寂しい限りですが、新たな場所での生活が整えられることをいのります。


今週も聖書の学びはございます。今週、来週ともに以下の日程で集会、礼拝が
 行われます。


11/14 (火) 徳山 聖書の学び

11/16 (木) 13:00 益田 小浜礼拝
        14:00 益田 元町礼拝
        19:30 六日市礼拝

11/18(土)会議のための大阪出張
11/19(日)10:45 徳山 礼拝 


いづれの礼拝、集会ともにどなたでもご自由にお集まりいただけます。

本日の礼拝メッセージは以下の通りです。



【マタイ福音書2234-40節】
 「心と精神と思いを尽くし、神さまと隣人を愛すべし」とは、キリスト教の黄金律として知られています。古典の金言として見れば良い言葉ですが、自分のこととして見ると難しい言葉です。「全身全霊で神さまと隣人を愛する」など、主には可能でしたが、自分には出来ない。いわば「自分の影」を見つめさせられる言葉と言えましょう。しかし元々、この言葉を言われた主は、全ての人に公言なさるおつもりでなく、一部の人が対象だったのです。

 その一部の人とは、当時の宗教者です。マタイ福音書22章とは、主のご生涯の後半です。舞台はエルサレム神殿のど真ん中で、この言葉の対象はファリサイ派です。元来主は、その人々に語られたということを覚えたいのです。そう考えると、この言葉は「黄金律」ではなく「厳しい」言葉に他なりません。まず「心、精神、思い」についてです。なぜ主は、同じような言葉を用いて神さまと隣人を愛することをお伝えになったのか。それは、この三つの言葉に「同じようでいて、微妙に違い、かつ宗教者の課題を言い当てる」要素があったからなのです。

 すべて当時の意味ですが、「心」とは善悪の判断を自発的に司る機関でした。「心を尽くす」とは、自発的に神さまと隣人を愛していくことです。律法を達成することに頼り切っていた宗教者への批判です。「精神」とは、神さまの息吹を表す言葉です。彼ら宗教者は、神さまからの息吹でなく厳しさを人々に突きつけた、その批判です。「思い」とは、他者への関心です。実は今日登場した「ファリサイ派、サドカイ派」は、主を倒す目的のため一致していましたが、普段は関わりがありませんでした。自己満足、自己完結の信仰で他者に思いを寄せない当時の宗教者への批判です。その主の厳しさはマタイ福音書23章に、語調険しく続きます。

 さて、私たちはこの言葉をどう受け止めるか。「達成できていない」と自分自身を嘆くこともあるでしょう。しかし、そのような自分の影だけを見つめない。影があるのは、光があるからです。自分自身を照らして下さる神さまを覚えます。すると不思議なことに、「神さまから愛され、隣人から愛されている」という、受動の自身に気付かされるのです。