2018年4月2日月曜日

3/24.25 海と献花と礼拝

 3/24の益田小浜の海でした。穏やかな日でした。
 この後、小浜、益田、六日市で礼拝が行われました。
 徳山献花その1です。
徳山献花その2です。紫色の花と白い百合の花。
受難節から復活祭に向けた色合いです。

受難主日の今日、教会の礼拝ではこういうことがありました。
1 初ばいさんを迎える教会の幼子のために、M兄が証しをしてくれました。
  罪を抱き、罰を受けるべき私たちが、イエスさまの十字架によって
  救われたという、まさに今日の礼拝のテーマでもありました。
2 教区総会のことが振り返られ、教区長や常議員のための祈りがなされました。
3 今週、召天日を迎えられるM・H兄のために祈りがなされました。
4 礼拝後、菜飯とお汁を頂き、次週の持ち寄り愛さんの話がなされました。
5 K姉による英語ゲームに子どもたちが楽しんでいました。

今週、来週ともに礼拝、集会は以下の日程で行われます。

3/27 火曜日 聖書の学び 休会となります。

3/30 金曜日 19時 受苦日礼拝 徳山
3/31 土曜日 13時 益田市小浜礼拝
        14時 益田教会礼拝
        19時 六日市礼拝
4/  1 日曜日   10時45分 徳山礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

本日の礼拝説教要約は以下のとおりです。



【マルコ福音書1542-47節】
 益田Cの十字架は刷りガラス、六日市Cの十字架は反り気味、徳山Cの十字架は縦木の荒れが目立つ状況のままとなっています。作成された方は、その時点での信仰を十字架に向けたのでしょう。そして今それを見る私たちは、自身の信仰の様子を神さまと十字架から教えられるのです。徳山の場合、皆さんはあの「凸凹」をどのように見られているか。六日市の場合、反り具合をどう見るか。益田は、曇り具合をどう見るか。それぞれの特徴が際立っているときには、私たちの心が「荒れ/反り/曇る」ということになると思います。

 十字架を覚える今日の主日です。そもそも十字架刑とは、当時知られていた刑の中でも残酷さでは一二を争うものです。肉体をさいなむ痛み、呼吸をするたびに響く鈍痛、主の時代は、日本の江戸期のような「とどめの槍」は無いのですから、数時間、想像を絶する痛みが覆うのです。マルコ福音書前節にも、主のみ苦しみが記載されています。なぜ神さまは、痛みの中でもこれほどのものを課したのでしょう。その必要があったのでしょうか。神さまは人の目に、主の徹底的な苦しみと、主の肉体と精神が完膚なきまでに破壊される様子を刻みたかったのです。実際、既に弟子たちは無く、熱狂的な支持者も離れています。

 主の絶命後、規定は「即座の土葬(申命記2123)」でした。ただ、誰も為す人が居ない場合「木ごとゴミ捨て場(ゴルゴタ)に放置」され「鳥のエサ」になります。ただ神は、そのような状況に主を落としつつ、そこからの復活を目します。その過程で人を用います。神さまは人を用いられるのです。まず議員の一人、アリマタヤのヨセフが用いられ、女性たちも復活の証人として用いられることになるのです。神さまは主を用い続けるために、人を用います。

 ヨセフや婦人たちは「勇気を出した」人々でしたが、同時に「何も出来なかった自分」をも知っていました。神さまはそのものを用いられるのです。「荒れ/反り/曇る」道を通って、主はこの私たちの所にも来られました。だから私たちは、十字架を見上げつつ、この十字架に後ろを支えられつつ、地上の道のりの終わりまでが導かれる確信を今日も得るのです。