庭のブナの木です。青葉が育っています。
礼拝堂献花。背後から朝日が十字架と献花を照らしています。
なんと赤潮。4/21の益田小浜の海です。
こういうこともあるのです。
最後は徳山の庭。「500円で買った」という花が、9面のプランターで咲き誇っています。
さすが道の駅の花。水がきれいで、こんにゃくとわさびが名産の場所です。
イノシシも飼われていますし、マンゴーアップルソフトクリームも売っています。
復活後第3主日の日曜日、教会の礼拝ではこういうことがありました。
1 朝、会員宅の愛猫が居なくなったという知らせを受け取り、
そのことが礼拝の中で覚えて祈られました。
2 礼拝前には、柳井CのNPO法人「一粒の麦」のメンバーの方々を支援する
「古紙、段ボール」が大量に持ち込まれました。
この古紙は毎週火曜日に柳井に運ばれます。
3 新緑を見出せる時期、六日市でも夕べに礼拝が行われました。
礼拝後にはレモン饅頭、かりんとうがおやつとして出されました。
4 益田の小浜では赤潮が広がっていました。
けがをされた方は、讃美歌を朗々と歌い、回復を感じさせています。
5 徳山では、大根菜飯、タケノコ煮物、卵汁を頂きました。
今週、来週ともに礼拝、集会は以下の日程で行われます。
4/ 24 火曜日 15時 聖書の学び
4/ 28 土曜日 13時 益田市小浜礼拝
14時 益田教会礼拝
19時 六日市礼拝
4/ 29 日曜日 10時45分 徳山礼拝
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
本日の礼拝説教要約は以下のとおりです。
【ヨハネ福音書21:15-19】
聖書は「自身で読む」ことでも恵みが示されます。でも今日の聖書は「教会で聞く」中でその真意が分かります。私たちが日本語で聖書を一読して見出すのは「主は三度、愛を問う」ですし、思うことは「三度否認したペトロだから、三度愛を問うたのだろう」ということでしょう。私も当初はそう考えていました。ただその見方の中で浮かんでくるのは、「主の寛大さ、寛容さ」以上に、「弟子の裏切りを赦さない主」「赦しても、念を押す主」というものです。果たして主はそのような方か。今年、聖書を読んでいて新たな喜びが与えられました。
それは、聖書を原典で読む中で与えられた喜びです。つまり主とペトロとの三度の問答は、ペトロの答えがずれているのです。結論から言えば、ペトロは二度「人間としての限界」を述べたのであり、主の三度目の問いは、その限界を受け止めつつ赦すというものなのです。一度目、主は「アガペー」という愛の言葉を用いてペトロに「愛するか」と問います。対してペトロは「フィリオ」という愛の言葉を用いて主に答えるのです。これは、どういうことなのでしょうか。
主「ペトロよ、あなたは私を心の底から愛するか」ペトロ「心からは無理ですが、友を思うくらいなら愛せます」これが一度目の応答の真意です。主が「心から」の愛を問うているのに対して、ペトロは主の求めには応じえないのです。二度目も同様です。そこで主はペトロの心を解した。三度目の主「友を思うその心で良い、私を愛するか」ペトロ「はい、主よ」となるのです。
始めは「心から」を求めた主でしたが、「友を思うその心で良い」と言われます。その言葉は結びの「年を取ると…」とつながって来るのです。「行きたくない所へ連れて行かれる」最期をやがてペトロは迎えます。そのペトロは「友として支える主」を心に納めていたわけですし、主もペトロを覚えていたのです。主は「あてつけ、意地悪」を為したのでなく、ペトロの心を問い、ペトロの心情、信仰に相応しいみ言葉をくださったのです。人の愛には限界があり、破れがあります。主はその限界を知りつつ、破れを知りつつ、破れたところを縫うような、時に応じた相応しいものを私たちに下さいます。まさに「慈しみ深い友なるイエス」です。