この後、六日市では雪が降りました。既にノーマルタイヤだったので、
積もらないか文字通りひやひやした一日でした。
4/8 徳山献花です。十字架のたもとに咲く花。
4/8 徳山C道路側庭の芝桜です。日照の関係で手前から咲いています。
4/7 徳山C道路側庭の芝桜です。この状態から一日で開花しました。
復活後第1主日の今日、教会の礼拝ではこういうことがありました。
1 冬の冷え込みを感じさせた今日、不整脈のため安静を要する姉妹のために
執り成しの祈りがささげられました。
2 入学式、入園式、始業式を控えた今日、学校関係者や入学対象者のための
執り成しの祈りがささげられました。
3 礼拝の報告中で、松江にお住まいの教会員がお健やかにお過ごしという
報告を感謝をもって受け止めました。
4 礼拝後、マーボー豆腐、わかめ汁を頂きました。
実はにんにくが大量に投入されていたとのことです。
5 3で報告した教会員が、お住まいの施設で短歌、絵、書道など、多趣味の中で
日々を過ごされていることが分ち合われました。
今週、来週ともに礼拝、集会は以下の日程で行われます。
4/ 10 火曜日 15時 聖書の学び
4/ 14 土曜日 13時 益田市小浜礼拝
14時 益田教会礼拝
19時 六日市礼拝
4/ 15 日曜日 10時45分 徳山礼拝
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
本日の礼拝説教要約は以下のとおりです。
【マルコ福音書16章9-18節】
もともとマルコ福音書は、16章8節で終わっていました。つまり「婦人たちが逃げさった」ところで終わっていたのです。しかし主を信じる人々の群れが生まれました。ということは、このご婦人たちは「誰にも何も言わなかった」のでなく、誰かに主の復活を伝えたのです。その経過を、他の新約聖書諸文章、口伝を参考にして「記者マルコでない人が」創作したのが、9節以降です。だからこの部分は、確かな主の言葉でなく、疑わしい言葉もあるということです。その前提を踏まえた上で、聖書とされているこの9節以降から恵みを受けたい。
始めに登場するマグダラのマリアは「7つの悪霊」と併せて記載されています。7は完全数ですから、かつては「誰が見ても気の毒な人」と言えます。また後の教会は「7つの悪霊」を「七大罪」と拡大解釈しました(6世紀)。要は、このマリアは「脛に傷を持っていた」のです。また二人の弟子は「主の別の姿」を見て、それを残りの弟子たちに告げました。ただ弟子たちは、マリアや二人の弟子の証言を受け付けず、「信じなかった」と記載されています。これでは、信じられないのが当然であり、むしろ「お叱りになった」主にこそ、叱る理があるのかと思えます。
なぜ主は「脛に傷ある者」を証言者とし「別の姿」で現れたのか。これは、主なりの弟子への訓練、試練と言い得ます。「まず受け入れる心」を増したかったのです。これから弟子たちが出て行くのは、仲間以外は全て敵対する世の中です。信仰の友として、受容し、信じ、助け合うことを示唆しています。また不信を受けたマリアと弟子二人については、主がどのような折にも介入されることを示唆したかったのです。この世に出て行く心配りを、主が為して下さったのです。そのためにあえて主は、不自然な形で自身を表し、人を用います。
「悪霊退さん、新たな言葉、蛇掴み、不信者は裁かれる」など、果たして真の主なら言う言葉でしょうか。誰かが、腰が引けている弟子たちを励ます意図で書いたものです。「まず受け入れる」。その姿は弟子たちを通して、私たちにも伝えられました。「まず受け入れられた」私たちは、その原点の恵みに立ち返りつつ、主の働きに結ばれて歩みたいものです。