2024年6月25日火曜日

6/22.23 防府と柳井

 

 こちらは6/23の防府チャペル。

 お花は、会員宅に咲いたユリの花。珍しい色合いです。

 こちらは6/22の柳井チャペル。

 雨模様の土曜日でした。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

6/29 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

6/30 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝

7/2  火曜日 18時半 六日市チャペル礼拝 

7/6 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

7/7 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

説教の要旨は以下の通りです。

■ マルコ4:3541 (68)

 説教              「嵐の中で休む」 

    「嵐の中の船」は、「湖上でイエスを幽霊と見間違う(6:45)」記事と共に、「夕方」の出来事でした。本日の「夕方」の時刻表記は、マルコの独自記事です。他の福音書は、船出時間の記載がない中で、唐突に嵐に遭うとの位置づけです。しかしマルコは、風災の可能性が高い「夕」に船出したという位置づけです。これが意味するところを聞きましょう。

 

「嵐の経験」の比ゆは多様ですが、結論は「主と共にその出来事を克服する」ことです。具体的には「出来事の結論を委ね、目前に集中する」こととなります。ただ、マルコのみが「夕方」と記す意図は何か。「危険、無謀」を承知で、船出したとの構図です。鍵は、漁師たちの存在です。対処を知る人々がいるからこそ、安心して「寝ていた」という主の姿です。

 

   しかし「不安が伝染」します。船には、対処を知らない弟子たちもいました。熟練者や、安心の主を見ても、目前に揺れる舟板と荒れる天候は、不安しか生み出しません。福音書は主の「風と湖に」対する沈黙命令を記します。慌てる弟子たちには平穏を、船を漕ぐ熟練の弟子たちには、慌てる弟子たちを見る促しと言えます。関わる心を相互に促すのです。

 

   他福音書が「神への信頼」を前提とした「目前集中」なら、日課は「相互に関心を持ち」「目前集中」です。「夕方の船出」は、「危険、無謀(リスク)」を抱えることを示唆します。不安です。避けることを願いますが、付帯するものです。その経験が弟子たちにもあったのでしょう。その折、ざわめく心に主の「黙れ、沈まれ」を覚え、克服したことを覚えましょう。


2024年6月5日水曜日

6/2 徳山と防府

 

 6/2(日)防府の礼拝堂でした。白→緑は来週。

 入院中の、会員のことを覚え祈りました。

 6/2(日)徳山の礼拝堂(撮影は火曜日?)

 奥は、召天者記念堂となっています。

 聖壇から礼拝堂。
 入り口から聖壇。

 今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

6/8 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

6/9 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝

6/11  火曜日 18時半 六日市チャペル礼拝 

6/15 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

6/16 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

説教の要旨は以下の通りです。

■ マルコ2:2327(64)

 説教              「生きることが、喜ばれる」 

   「安息日」の起源は、出エジプト記です。「出エジプト」を聖書は、「男性のみで60万人(出12:37)」と語ります。エジプト史には、100万人単位の「奴隷逃亡」記録はないとのことです。実際は、小規模移動と憶測します。ただ、自給自足の逃亡中の「休み」は、皆が疲労を癒す大事な時でした。それを「神の創造の休み」からの意義付けとしたのでしょう。

 

  聖書の場所は「カファルナウム(ペトロの町)」。安息日には、火を使えません(出エ35:3)から、「前日の“煮込んだ”料理」。ペトロの家族に「料理させる」選択肢はありません。自宅で煮込みを皆で分かち合い、頂くのが良い選択です。しかし主は、安息日規定に関し疑問がありました。「命令と義務」で、「罪びと」が量産されている事態への疑問でした。

 

  主の視点は、「神を覚える」安息日は、元来「人のために定められた(27)」ことです。上記の通り、一週間の疲れを癒す時が、神の創造の業と重ねて定められたのです。ところが主の時代、規定違反者は「罪びと」とされていました。そのことは「麦を摘む」ことが、安息日の禁止事項とされていることからも推測できます(24)。主は古事を引用し語ります。

 

  引用されたダビデの話の前提は、サウルの殺意を受けて逃亡中の時です(Ⅰサム21)。安息日に、ダビデはサウルから逃げます。同行中の他者に労働を強制できず、当然、煮込みも盗めない。いわば「緊急事態」に、「神に捧げられたパン」を頂いた話です。この世は「義務と禁止」が多くあります。その中で「生きることを喜ぶ神さま」を思い、過ごしたい。