2024年8月27日火曜日

8/24.25 柳井、徳山、防府

 

 8/27(火)徳山の礼拝堂、朝の光を受けています。

 数日後の台風が心配です。

 8/25(日)防府の礼拝堂。「いうまいと 思えど午後の 暑さかな」


 8/24(土)柳井の礼拝堂。こちらも午後礼拝。

 今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

8/31 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

9/1 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝

9/3 火曜日 18時半 六日市チャペル礼拝 

9/7 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

9/8 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

説教の要旨は以下の通りです。

ヨハネ6:5669 (176)

 説教              「離れずに生きる」 

    「五千人の給食」の要点は、「分かち合う」ことも一つです。頂きものの「パンと魚」を、主は大勢の人々に分かち合うのです。今自身の手元のものも、自身の力も、独自のものではありません。頂いたものを「大勢に」つまり身近な所で使うことが出来ると思います。

 

今日の聖書では、主が自身を「命のパン」とします。「肉と血(56)」を頂くことを勧め、古事の「マナ」を「先祖が食べて死んだパン(58)」と語ります。不信を示唆(64)された弟子たちの多くが「ひどい話だ」と去ります(66節)。なぜ、主の言葉は届かなかったのか。

 

    「血」は「儀式で、神に捧げる(レビ17:10-12)という規定があります。この規定から「血を飲む」という主の言葉は拒否されます。主は「出エジプトのパン」を時限・有限としますが、受け止める人々は侮辱と思うのです(58)。主と人々とに、境界が生まれるのです。

 

  この時代「罪の赦し」は献金と供物に依りました。しかし主はご自身を捧げられ、供物をご自身となさいました。ここでは「ペトロの信仰告白(67)」が成されますが、やがて離れたペトロを後ろに、主は十字架に向かいます。主の、ご自身の分かち合いを覚えましょう。



2024年8月23日金曜日

8/17.18 礼拝堂

 

 8月 さつまいもの伸びはいまいち。


 8/18 防府の礼拝堂。午後の礼拝堂は猛暑なのです。
 8/18 徳山の礼拝堂。朝はそれなりに涼しいですが、午前中一気に気温があがります。

 今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

8/24 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

8/25 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝

8/27 火曜日 18時半 六日市チャペル礼拝 

8/31 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

9/1 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

説教の要旨は以下の通りです。

■ ヨハネ6:5158 (176)

 説教              「死を越えたいのち」 

    「五千人の給食」は、ヨハネ福音書と他とでは、結論が異なります。ヨハネ福音書は、「身体を養い」そして「心を満たす食物」に注目しています。「心を満たす」食物とは、イエスご自身(51)。弟子たちの時代に制度化された「聖さん式」を思い起こさせる内容です。

 

    日課では「肉を食べ、血を飲む(53)」という言葉に「ユダヤ人」が拒絶しています。この背景はレビ3章、17章です。「血」とは「命」「神への捧げもの」に用い、「地に返す」という記載があります。主の言葉は「ユダヤ人(52)」や「弟子(60)」をも離れさせました。

 

    主の言葉は当時、明確な違反と見なされ、結果的にはユダヤ教から分かたれた要因でした。しかし主は「離反」を意図しません。祭儀の動物の血に替わり自身が「ただ一度(ヘブライ書)」血を流し、頂くものに「永遠の命」を示し、現世の希望を抱かせる意図でした。

 

  聖書では「パンと血(54)」を頂く者が、永遠の命と復活に預かるとします。「頂かない者」については言われていませんが、主はヨハネ14章では「全ての人のための、天での場所」を語ります。主の言葉を通して、今から永遠に向けて導かれることを覚えましょう。




2024年8月14日水曜日

8/10.11.13 柳井と徳山、そして徳地


8/10(土)柳井チャペルの礼拝堂です

8/14(水)の、徳山チャペルの礼拝堂。
 
8/12(月)山の日。山間の徳地(とくぢ)の釣り堀。

ニジマスハント。お土産はサバのような大きいサイズ。この人が採りました。


暑さの中、茹で上がらないメダカたち。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

8/17 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

8/18 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝

8/20 火曜日 18時半 六日市チャペル礼拝 

8/24 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

8/25 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

説教の要旨は以下の通りです。

■ ヨハネ6:35, 4151 (175)

 説教              「優しさは、繰り返す」 

    「五千人の給食」は、「男だけでおよそ五千人(6:10)」の人々にパンと魚を提供した話です。4福音書が記載する「驚き、印象深い」話です。在所の会堂では聞けない、主の話と働きを求める人々の「身体」が満たされました。ただ、ヨハネ福音書は「給食の意味」を付け加えます。結論は、主は「身体の満たし」以上に、「心を満たす」ことを伝えるのです。

 

    「心の渇き」は、不満や疎外感とも言えます。主は「いのちのパン」と自身を述べ「信じることで、飢えず、渇かず」と言います。「渇かず」は、「魂の渇き」を覚えた「サマリアの女性(ヨハネ4章)」との関わりにも登場します。女性は、主との暖かな、心情を察する対話を通して「渇きが癒される」ことを実感します。ただ日課では、主の発言は戸惑いを生みます。

 

    彼らは主の考え方を問題にします。「出エジプト」時に、人々をマナで養われた神と、自身を同列に見るその姿勢は良いのか。加えて「ヨセフの子」である自身を「天からのパン」と述べる姿勢は正しいのか。主としては、自身の在所を天とする(44)ことで、全ての人のために「居場所を創る」意図を示すものでした。しかし主の言葉全ては、受容されません。

 

   主は「出エジプトの昔(49~)」を、「神の食べ物を食べたのに死んだ」と言います。そしてご自身を「パン」と語ります。「聖餐式に預かる勧め」とは、やや短絡的な見方です。主イエスとはどのような方か。居場所を用意し、共に歩み、支え、日々を助ける方なのです。「対話」の相手として、私たちは自身の心を主に向けましょう。日々の支えが、あります。







2024年8月8日木曜日

8/3.4 平和礼拝とナスメダカ

 

 8/8(木)徳山チャペル前のメダカの鉢。

 余りにも暑すぎたため、一匹茹で上がってしまいました。

 取り急ぎ、段ボールの日よけ。


 8/4(日)平和礼拝の献花でした。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

8/10 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

8/11 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝

8/13 火曜日 18時半 六日市チャペル礼拝 

       ※家庭礼拝です。週報については送付いたしました。

8/17 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

8/18 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

説教の要旨は以下の通りです。

ミカ 4: 1 5 (1452)

 説教              「ここから始まる平和」 

    日本福音ルーテル教会も、8月の第一主日を「平和主日」として既定しています。成立は「戦争を創出した過去」への反省を背景としています。「反省」することは、「今」を見ることと同義です。しかし「今」の何を見るのか、「私、家庭、地域、社会、世界」と、余りにも大きいものです。平和は、多くの要素の中で成立させられ、その維持には労力が要ります。

 

    聖書は「平和ではない状況」に書かれたものが大半です。旧約は「エジプト、アッシリア、バビロン」の影響が見られます。ミカ書の場合は「アッシリア」でした。同時代のイザヤが「ユダヤ南部」で活動したことに対し、ミカは侵略の影響が大きい「ユダヤ北部」の人でした。前半では、突破された北部ガリラヤを前提に、中部サマリアへの惨禍を説きます。

 

    ミカ書は「指導者」を批判的に語り、抑圧された人々に共感します(2、3章)。そして「終わりの日(4:1)」に、武器が農具となり、神が平和を築くと告げます。渦中にどれだけ届いたか。しかしミカは、批判と希望を語り、共感することが出来る全てだったのです。後年樹立の「国連碑文」の言葉が響きます(4:3)。アッシリア国内事情で、外圧は収まります。

 

    しかし、アッシリアの弱体化はバビロンの伸長を招き、イスラエルは後年、更なる外圧に苦しみます。ミカが知らない後年のことです。しかしミカは後年も踏まえ、旧約には珍しく「民は各々の神のみ名により歩む(4:5)」こと、私たちは「我らの神」により歩むと言います。神さまの支えを信じ、日々を生きる難しさを示します。平和を得て、日々を過ごしましょう。