2025年1月28日火曜日

1/25.26 柳井、防府、徳山の朝

 

 1/28(火)朝の徳山です。明け方は雪がちらつきましたが、

今は止んでいます。これから山間部は雪予報が出ています。

本日の六日市礼拝は、降雪のため家庭礼拝となりました。

 1/26(日)防府礼拝前。穏やかな冬の一日でした。まだ暖かでした。
 1/25(土)柳井礼拝後。

曇りのため、電気を付けています。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

1/28 火曜日 17時 六日市チャペル礼拝 家庭礼拝となりました。 

2/1 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

2/2 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝

2/4 火曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

2/8 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

2/9 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

説教の要旨は以下の通りです。

ルカ4:1621 (107)

 説教                「私には夢がある」 

   主は「イザヤ61:1~2前半」を読まれた後「朗読終了(20)」の意思を表明されました。。朗読後、主は「聖書が実現する(21)」と宣言されますが、この言葉が会堂混乱の契機になります。何があったのでしょうか。主の「目に留まった(17)」聖書箇所と朗読が鍵です。

 

当時の聖書は「章句」がない、平文でした。章句は13世紀に付加されました。平文聖書を開き、主が相応しいと見られたのは、貧しく困難な人々に、神が共にあるとの箇所でした。主は「実現する」という「解釈」も、会堂に集う人々への希望として必要と見たのです。

 

ところが主の意図は、ナザレの人々(に代表される、主の時代の人々)に届きません。ご発言には「主に目を注ぐ(20)」のみ、次の「実現」の言葉に、不規則発言「ヨセフの子だ」という「蔑称」が飛び出します。「イザヤ61:2後半」の実現が人々の求めだったのです。

 

「神の報復思想」は、詩編94編等の旧約に見出され、主の時代も求められていた考えでした。主はその中で「困難な人への支え」に生きる姿勢を鮮明にしたのです。私たちは、この主イエスからの「支え」の延長線上にいる一人です。心の先にある方を覚えましょう。


2025年1月21日火曜日

1/18.19 柳井、徳山、防府、そしてメダカ

 

 1/21(火)徳山礼拝所の朝です。

 晴れの予報ですが、今は曇り。

 1/21(火)先週の寒波を経て、メダカが一匹残りました。

 この鉢が凍結するほどの寒さだったのに。

 1/19(日)防府礼拝所の礼拝前。

 典礼色は緑。

 1/18(土)柳井礼拝所の礼拝前。

 寒椿がいい様子です。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

1/21 火曜日 17時 六日市チャペル礼拝  

1/25 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

1/26 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝

1/28 火曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

2/1 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

2/2 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

説教の要旨は以下の通りです。

ヨハネによる福音書第2章1~11節


 説教                「もう飲めない」 

   「水がぶどう酒になる(9)」光景は、新郎新婦の両親や、執事役のマリアにとって望外の喜びでした。主イエスは、「望ましくない状況」を「しるし」で好転させるのです。私たちは、主のこの出来事に自身の祈りを重ねたいと思います。「状況の好転」を主に託すのです。

 

   別の見方では「現状の支え」とも考えます。「しるし(11)」とは、主イエスを分かりやすく示すものです。この「ヨハネ2章」という脈絡が大切です。2章後半の「宮清め」は、「祭儀の利権」を否定します。この話も、「清め」を否定するのです。「あるがまま」が結論です。

 

   主イエスはなぜこの「しるし」に、「清めの水がめ(6)」を用いたのでしょうか。「衛生」の水がめを、一時的とはいえ用途不能にした意図は何でしょうか。神さまの差配される「結婚式」に「清めるべきもの」はないこと。神さまが全て、受容されることを示したのです。

 

   主イエスは母マリアに「婦人よ、時はまだ来ていません(4)」と語ります。7章でも「時は未だ(8)」と語ります。水がめの清めや、神殿の動物に替わり、主がご自身を捧げた「時」は、十字架の時でした。今はただ主イエスが、私たちの「あるがまま」を受容されるのです。




2025年1月14日火曜日

1/11.12 柳井の折り紙、防府、徳山

 

 1/14(火)朝の徳山礼拝堂です。外気は1度という表示です。

 外掃除はグローブが必須の時期です。

 1/12(日)防府の献花。可愛い紅い花たち。
 1/11(土)柳井の「一粒の麦」の方から頂いた作品集。

 「やさしい どうぶつえん」と表題がついています。




今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

1/14 火曜日 17時 六日市チャペル礼拝  「家庭礼拝」を訂正し、集います。

1/18 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

1/19 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝

1/21 火曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

1/25 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

1/26 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

説教の要旨は以下の通りです。

ルカ3:1517,2122 (106)

 説教            「今日、素敵な日になります」 

   今日の聖書は「期待と理解」となります。主イエスは「厳しさ」を期待されていましたが、主イエスご自身は「優しさ」を必要と理解したのです。さて、「洗礼者ヨハネ」が見た世の中は、為政者の不始末、宗教者の欲、民衆相互の無関心(ルカ3章)という現実でした。

 

   ヨハネは、自身の「清貧」を民衆の「貧の現実」に当てはめようとします。「極限までの分かち合い」を求め、自身の言のために主イエスを「聖霊と火の洗礼者(16)」として登場させます。刺激的な表現ですが、これは「神の一側面(申4:24、ヘブ12:29)」となります。

 

「神の意志は不純を焼く」から「愛に励め」という思考です。しかし主イエスはどうか。民衆と同じ出発点に立つという意味の洗礼後に、「鳩」を例示した聖霊の降臨を告げます。なぜ「鳩」なのか。鳩は「贖いの動物」であり、「ノアの洪水時」に陸地を示した動物です。

 

神は主イエスの受洗時に、人々の罪を負い、道を示す二つの使命を託したのです。「天からの声」は、イザヤ42章の引用です。この時の神様も「優しさ」を示していました。生きることだけで精一杯の時代、「愛の神さま」を示し、他者への関心を主は示されたのです。




2025年1月7日火曜日

1/4.5 柳井、徳山、防府

 

 1/5(日)防府の礼拝堂の献花。かわいらしいものです。

 顕現主日の礼拝となりました。

 1/5(日)防府の礼拝堂、遠景です。
 1/5(日)徳山の礼拝堂。早朝と思われます。
 1/4(土)柳井の礼拝堂。

新年の礼拝は、それぞれの礼拝堂で行われています。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

1/11 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

1/12 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝

1/14 火曜日 17時 六日市チャペル礼拝  家庭礼拝です。

1/18 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

1/19 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

説教の要旨は以下の通りです。

マタイ 2: 111(2)

 説教         「あなたの仰せを守らせて下さい」 

   「占星術の学者(1)」が、「王子の誕生」を知ったことは、ユダヤの人々に皮肉と言えます。「占いの術」は、申命記13章が「異教的」意味から禁止するものでした。一方「救い主」は、イザヤ9章他が預言していました。マタイの意図は、「異邦人」に脚光を当てるものなのです。

 

   学者たちの思いは「黄金等」が意図する通り、「王子への表敬訪問」でした。「救い主」の意識は不在と考えます。一方「民の祭司長」たちは「王子の誕生報告」を受けて聖書を調べ「ベツレヘム」と誕生の場を特定します。余談ですが、彼らは聖書の本文を替えます。

 

   この時期「ヘロデ神殿」は建設中のため、祭司長たちは大王に忖度し「聖書と自身の生き方」を曲げます。「小さくない」との断言が、大王の猜疑心を煽ります。学者たちも「導き」を見失います。「王子は首都在だ」という思い込みが、大王の猜疑心を掻き立てるのです。

 

   「道を見失い、見誤る」のは、全人的な課題と聖書は言います。神や主イエスはその都度、道を示すものなのです。クリスマス物語は、「意外な人」である「羊飼い、占星術の学者」が登場します。「神の愛からは遠い」と見られている人々に、主イエスは近くおられます。