2025年5月27日火曜日

柳井、徳山、防府の礼拝堂

 5/23(土)柳井の礼拝堂となります。

 ユリは今週、開花することでしょう。

 5/24(日)防府の礼拝堂。

 この日は過ごしやすい一日でした。

 5/24(日)徳山の礼拝堂。

 日曜日から今日の火曜日迄、比較的天候は五月らしいさわやかなものでした。

 今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

5/28 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝

5/31 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

6/1 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

6/4 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

6/7 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

6/8 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

本日の礼拝説教の要旨は以下の通りです。

復活節6主日 朗読用説教 

ヨハネ福音書51-9節 「今日から歩いて行こう」

水原一郎

 「ヨハネ福音書519節」がこの日の福音書になります。今日は、この中から「主イエスは全ての感情を受け止める」ことを覚え、聖書の言葉から力を頂きましょう。

                                                                        

 星野富弘さんに関わる、ここ最近知ったことを、今日の聖書の導入としてお分かちしたいと思います。昨年4/28に召天された星野さんは、体育教師の時に頸椎を損傷されました。入院当初、スキー事故で全身まひとなった中学生が同室になります。星野さんは彼を「ター坊」と呼び、仲良くなります。しかし「ター坊」が回復傾向を見せると、星野さんの心に「どうしようもない寂しさ、回復を喜べない心」が生まれるのです。回復を喜びたい思いと、自身の回復が進まない悩みとの間で揺れる心があったのでしょう。柔らかいタッチの絵や、み言葉とともに描かれる作品の背後には、入院初期のこうした感情があったことを知りました。聖書には、「病気」を負う人が登場します。

                                                                        

 「全ての感情」に関係する言葉として、病気の人の7節「主よ、水が動く時、私を池の中に入れてくれる人がいない」という言葉が当てはまります。この人の居場所は、エルサレムの「ベトサダの池」でした。ここは「障がい」を持つ方々が集う場所でした。この池には「風がないのに水が動く時に入浴すると、患いが癒える」という伝説がありました。3節には、「病人、盲人、足や体のまひ」の方々が集っていたとあります。池に入るには、介助が必要でした。しかしこの人の介助者は、今この時、いなかったのです。

                                                                        

 「38年」病んでいた人は、恐らく「盲目、肢体不自由、まひ」の何れかを患っていると見ます。「ユダヤ人の祭り」に併せての都詣でを「38年」続けたのでしょう。彼一人での都詣では考えづらく、誰かと一緒に都に来たのでしょう。当初は体力があった同伴者も、やがて衰えます。ついに今年は、同伴者が介助できない状況になったのです。ここに、「病や患いが直る伝説」を信じて38年間挑み続けた彼の姿があります。彼は、今日的に言えば「競争社会」の一員でした。自分の置かれた状況で競い続けたのです。ただ、挑むことは同時に、彼にとって敗れ続けたことと同じなのです。

                                                                        

 このような背景を抱えた中、主イエスは彼の前に立ちます。そして、「良くなりたいか」と問われます。良くなりたいからこそ、ベトサダの池にいるのです。この問いの意図は何でしょうか。それは、「彼の背景」を、彼自身の言葉で語らせるためだと考えられます。申命記214節では、「38年」という数字が「世代交代」を意味するものとして挙げられます。癒しを信じつつ、世代が変わり、介助者を失っていく現実。競争に立ち向かうも、助け手のいない日々。そのような現実の中敗れ続けてきた彼は、同病の者たちの中で、その思いを誰にも明かせずにいたのです。主はその心を開かれました。

                                                                        

 「ベトサダの池」これだけなら古代の一風景、不思議な伝説の場所と見えます。しかし、競争社会でした。競争は、否定しません。人が集えば、安心や喜びと同時に、競争もまた生まれます。私たちも、年代や背景は様々でも、「競争」を抱えて生きています。「他の人が先に行く」という彼の言葉から、現役か引退かに関わらず、「競争の日々」が浮かんでくると思います。そして同時に、私たちの傍らでうまく生きている人、巧みに生き抜いている人の姿も、心から離れません。38年間、病を患っていた人の前に主が立たれたように、今日私たちの前にも、主が共にあると覚えたいのです。

                                                                        

 このような「癒しの物語」の結末には、「癒された人」が登場します。物語の結末です。しかし、このみ言葉の説教を語るとき、個人としても、牧師としても、「嫉妬」の思いが浮かびます。「良くなりたい」と思う自身も、「良くなりたい」と願う会衆の思いも、共に心にあるからです。しかし、主のしるしや奇跡の物語で大切なのは、「過程」——プロセスだと思います。主が病の中にある人に出会い、その心にある様々な思いを受け止めてくださること。それこそが、今日私たちが覚えたい、大切な「過程」なのです。

                                                                        

 祈りとは、良いことも、繰り言のように思えることも、一つ一つを差し出すことです。

受け取って下さる主がおられる幸いを心に納め、新しい一週間を歩んでいきましょう



 

2025年5月20日火曜日

5/15.17.18 キティちゃん新幹線、西宮、柳井、防府、徳山玄関

 

 5/17(土)柳井の方から頂いたバラを、5/18(日)徳山の礼拝でお捧げしました。

 5/20(火)現在、玄関にあります。

 5/18(日)防府の礼拝もバラ。

 5/17(土)柳井の礼拝堂。
 5/15(木)西宮教会を訪問しました。

 写真はアーモンド。今年1月に召天された教会員が、記念のために植えられたのです。

 5/15(木)新幹線を一本、徳山で乗り過ごしたために見られた「キティちゃん新幹線」。

 これに乗り、広島で乗り継いで新神戸→香櫨園と出張しました。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

5/24 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

5/25 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

5/28 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

5/31 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

6/1 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

本日の礼拝説教の要旨は以下の通りです。

復活節5主日 朗読用説教 

ヨハネ福音書1331-35節 「夜に輝く愛」

水原一郎

   「ヨハネ福音書133135節」がこの日の福音書日課です。今日は、「イスカリオテのユダへの愛」を通して、聖書のみ言葉から力を頂きましょう。


   「イスカリオテのユダ」には、「裏切者」という代名詞がつけられています。四福音書すべてに、ユダが主イエスを裏切ったこと、結果として主の十字架と死に至ったことが記されます。ですから「裏切者」という名は、必然的と言えます。主イエスがユダをどう見ていたかは、マタイとマルコでは「生まれなかった方がよかった(マタ2624、マル1421)」、ルカでは「災い(ルカ2222)」と、厳しい評価がなされています。一方、ヨハネ福音書では「裏切り」は描かれつつも、その評価は「神の計画の一つ」とされており、ユダの行動は、神の導きのうちにあったと記されているのです。


    今日の聖書箇所は「ユダが出て行くと(31)」から始まります。なぜユダは出て行ったのか。それは主を裏切るためです。が、きっかけは神さまや主にあるとの書き方です。一つ目は、「サタンが彼の中に入った(27)」ことです。サタンという言葉は今日は「悪の権化」と解釈されますが、主の時代には「神の家来」という意味もありました。つまり、ユダの行動も神の計画の一環であったということです。二つ目に、主イエスご自身がそれを知ったうえで「しようとしていること(裏切りの手引き)を、今すぐしなさい(27)」と言われたことです。ヨハネ福音書は、ユダの裏切りが(1)神の計画、(2)主イエスの促し、この二つに根ざしていることを示しているのです。


   主が「人の子は栄光を受けた」と言われるのは、ユダの裏切りと、続くご自身の十字架と死が「神の計画」だからです。ご自身の苦しみと死は、人間的には避けたいものです。しかし主は、神がご自身を全ての人の救いと支え、助けのために用いられることを喜びとされました。神に用いられるゆえに、神がご自身の行く先をも守ってくださるという確信がありました。そしてこれは、私たちにとっても同様のことです。


   主は以前、「私と父とは一つである(1030)」と言われました。133132では、神と主イエスが互いに栄光を与え合う関係が繰り返し語られます。そして主は、「私が行くところに、あなたがたは来ることができない」と言われます。主が「行くことができる」場所、そして弟子たちが「来ることができない」場所とはどこでしょうか。旧約において「祖先の列に加えられる(創4933)」と表される陰府(よみ)と見なせます。なぜ弟子たちは「来ることができない」のか。それは、主の十字架、死、そして復活を経た後、陰府を通り越して、一直線に「永遠の御国」に招かれるからです。


   この約束の後、主は「新しい掟」を語られます。実は「互いに愛し合う」という教え自体は新しいものではありません。レビ1918に原型があります。「新しさ」とは、「主からの愛」。神と主イエスの本質の一致を踏まえれば、「神からの愛」。ヨハネ福音書では、この聖句を挟んで「ユダの退出」と「ペトロの裏切り」が示唆されます。しかし主は、そのような弟子たちに「神の愛」、「ご自身の愛」を惜しみなく語るのです。


   このみ言葉があるからこそ、ヨハネ福音書はユダの「酷い最後」を描かないのです。ヨハネ福音書の時代、ユダは地上の命を既に終えています。ですが、終わりに至るまで、彼の心には「神の愛、主からの愛」があったと言えるでしょう。「夜(1330)」という時間帯は、裏切り後のユダの心の状態を象徴していると言えます。そのユダを包んでいたのが、「夜に輝く愛」主イエスから、神からの愛そのものでした。


   私たち自身の直感や理性は、「裏切り」を拒否します。おそらく、それは私たちの道徳観によるのでしょう。一方で私たちは、神さまから愛を受けていながらも、その愛に十分に応える歩みをしているとは言えないのが現状です。「愛を裏切っている」のです。しかし、イスカリオテのユダをも愛された主の愛は、今週も私たちと共にあります。その愛に支えられる喜びを思いながら、週日を歩んでまいりましょう。

    祈り(約1,650字)




2025年5月13日火曜日

5/10.11.13 柳井、防府、徳山

 

 5/11(日)教会員のご奉仕により、花壇が整えられました。

 以前のものも、左端に。

 徳山では「母の日」を覚え、薔薇の献花がなされました。
 5/13(火)徳山の礼拝堂。
 5/11(日)こちらは防府の礼拝堂。

 遠方にお住いの教会員が、ご母堂を覚えて贈られたカーネーションです。

 5/10(土)柳井の礼拝堂。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

5/17 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

5/18 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

5/21 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

5/24 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

5/25 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

本日の礼拝説教の要旨は以下の通りです。

復活節 第4主日 説教 

ヨハネ福音書10章22節-30節 

水原一郎

 本日の福音書の日課は、ヨハネによる福音書102230節です。この箇所から、「英雄にならなかった主イエス」について聞き、み言葉から力をいただきましょう。


 「英雄にならなかった主イエス」は、私たちを見放す存在ではありません。傍観者でも、無関心でもないのです。説教題「戦うあなたの傍に」の通り、主は日々、さまざまな戦いを抱える私たちの傍らで、支えて下さる方です。ヨハネ福音書から見ていきましょう。


 まず22節の「神殿奉献記念祭」です。これは、主イエスの時代から約200年前の出来事に由来する祭りです。当時ユダヤは、北方シリアの支配下にありました。シリアの宗教政策は「同化」、つまり、自国の神々をユダヤに押し付けるものでした。ユダヤの神殿には、シリアの神の像が据えられ、崇拝が強いられていたのです。このとき、「マカバイ」が立ち上がり、神殿から異教の像を取り除き、神に再び奉献しました。この記念が「神殿奉献記念祭」であり、人々は出来事と、「マカバイを支えた神」を覚えていたのです。


 この祭りは、マカバイという英雄を崇拝せず、神を記念するものでした。しかし、マカバイという人物に対する注目が集まったのも事実です。24節にあるユダヤ人たちの言葉「いつまで気をもませるのか」には、主イエスがマカバイのような勇者ではないかという期待と疑念がにじみます。彼らは、「もしあなたがメシアならば」と主に問いかけます。ここでの「メシア」は「油注がれた者」、すなわち特別な王、ダビデを意味します。ユダヤ人たちは、主の行われた「しるし」に目を留め、マカバイやダビデの再来を望んだのです。


 当時のローマ帝国の支配は、表面的にはシリアより「寛容」に見えました。たとえば、神殿に異教の神像を設置しなかったという点ではそうかもしれません。しかし、ルカ13章に記されている「ピラトの乱暴」などから分かるように、ローマの支配は常に不安を抱かせるものでした。ユダヤの宗教者たちが願っていたのは、「マカバイやダビデのような英雄」の登場でした。突き詰めれば「強力なリーダーの出現と、リーダーによるユダヤ民族の救済」でした。主は、まさにこのような背景の中、神殿奉献記念祭に現れたのです。


 しかし主イエスは、「単一民族の救い」ではなく、「すべての人々の救い」を意図されていました。「この囲いに属さない他の羊も導く」と語られる通りです。主は、人々の視線を広い世界に向けさせるというよりも、「自分と向き合う」「身近な関係に目を向ける」ことを促されます。 「私の羊は私の声を聞き分ける」と言われる主の言葉は、聖書や日常の中で聞こえてくる様々な声に、ユダヤの宗教者たちが耳を傾けているかを問います。当時、ローマへの徹底抗戦を叫ぶ「熱心党」のような人々の声もありました。その一方で、日々の生活に苦しみながらも生きる人々もいました。主の心は、そうした名もなき一人ひとりと共にあったのです。


 この世において、日々生活を、労苦しながら生きる人々は、決して高い報酬や名誉を得ることはありません。ルカ13章に見られる「ピラトの乱暴」や理不尽な災害のような出来事に打ちのめされつつ、それでも生きていました。主は、そのような人々と共におられました。 だからこそ、ここで「永遠の命」という特別な言葉が語られるのです。主は「英雄」として人々を導くこともできたでしょう。しかし、そうはされず、み言葉と神の優しさによって、一人ひとりを育もうとされたのです。


 ヨハネ福音書は「季節は冬であった」と記します。これは、ヨハネ7章の秋祭り「仮庵祭」に続くものであり、文字通りの意味もありますが、同時に「信仰生活の冬」をも象徴しているように思えます。
 主は「囲いの外」の羊にも目を向けつつ、季節が冬であっても、ご自身の働きを止めないと語られました。季節がどうあれ、私たちの心の中に「冬」を感じるときでも、そこに主は共におられます。
 「戦うあなたの傍に」主は確かにおられ、今日も私たちを支えてくださるのです。

 







2025年5月4日日曜日

4/27.5/3.5/4 下関、柳井、防府

 

5/4 防府チャペルの玄関を、サクランボと共に移しました。

小鳥がサクランボを食べていました。

 5/3 柳井チャペル。青空、白い雲に合う教会です。
 4/27 下関教会に赴任された牧師の就任式を執り行いました。

 教会の色は赤。喜ばしいひと時でした。

4/26 柳井チャペルの庭のボタン。松江の大根島で買い求めたボタンとのことです。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

5/10 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

5/11 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

5/14 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

5/17 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

5/18 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

本日の礼拝説教の要旨は以下の通りです。

ヨハネ21: 1519 (211)

 説教                 「失敗と回復」 

  テーマは「変わらない愛」となります。さて、聖書は「ペトロの失敗」を踏まえています。かつてペトロは主に「あなたのために、命を捨てます」と言いました (1337)。主の逮捕に関し、無為どころか「抵抗(18:10)」します。しかし、悲しい記憶が刻まれます(18:2)

 

  あらゆる危機に、強く丈夫であることは難しいものです。ペトロは「完全」という意味合いの「三度の否定」をします。置かれた状況に揺れる人間の姿を象徴するものです。過去を踏まえた主はペトロに「三度の愛」を問います。読み方次第で「意地悪な主」となります。

 

  ペトロは、三度の問いを通し「悲しくなった(17)」のです。しかし実は主はここで「ペトロの限界に歩み寄る」のです。そしてなぜか「加齢の話」をします。「若い時は自由、加齢は不自由」は、「ペトロの死に方」を示すとあります。これは「状況の変化」を示すと言えます。

 

  「完全な愛」を一、二度と問う主に、「友としての愛」で答えたペトロ。主は「完全でなくとも、友であっても良い」と問い、ペトロは涙します。そして「変化する状況」の人を語り、主は「私に従いなさい」と、ペトロを弟子として迎えます。日々変わりつつある私たちを、主は変わらず愛されます。