2025年5月13日火曜日

5/10.11.13 柳井、防府、徳山

 

 5/11(日)教会員のご奉仕により、花壇が整えられました。

 以前のものも、左端に。

 徳山では「母の日」を覚え、薔薇の献花がなされました。
 5/13(火)徳山の礼拝堂。
 5/11(日)こちらは防府の礼拝堂。

 遠方にお住いの教会員が、ご母堂を覚えて贈られたカーネーションです。

 5/10(土)柳井の礼拝堂。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

5/17 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

5/18 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

5/21 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

5/24 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

5/25 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

本日の礼拝説教の要旨は以下の通りです。

復活節 第4主日 説教 

ヨハネ福音書10章22節-30節 

水原一郎

 本日の福音書の日課は、ヨハネによる福音書102230節です。この箇所から、「英雄にならなかった主イエス」について聞き、み言葉から力をいただきましょう。


 「英雄にならなかった主イエス」は、私たちを見放す存在ではありません。傍観者でも、無関心でもないのです。説教題「戦うあなたの傍に」の通り、主は日々、さまざまな戦いを抱える私たちの傍らで、支えて下さる方です。ヨハネ福音書から見ていきましょう。


 まず22節の「神殿奉献記念祭」です。これは、主イエスの時代から約200年前の出来事に由来する祭りです。当時ユダヤは、北方シリアの支配下にありました。シリアの宗教政策は「同化」、つまり、自国の神々をユダヤに押し付けるものでした。ユダヤの神殿には、シリアの神の像が据えられ、崇拝が強いられていたのです。このとき、「マカバイ」が立ち上がり、神殿から異教の像を取り除き、神に再び奉献しました。この記念が「神殿奉献記念祭」であり、人々は出来事と、「マカバイを支えた神」を覚えていたのです。


 この祭りは、マカバイという英雄を崇拝せず、神を記念するものでした。しかし、マカバイという人物に対する注目が集まったのも事実です。24節にあるユダヤ人たちの言葉「いつまで気をもませるのか」には、主イエスがマカバイのような勇者ではないかという期待と疑念がにじみます。彼らは、「もしあなたがメシアならば」と主に問いかけます。ここでの「メシア」は「油注がれた者」、すなわち特別な王、ダビデを意味します。ユダヤ人たちは、主の行われた「しるし」に目を留め、マカバイやダビデの再来を望んだのです。


 当時のローマ帝国の支配は、表面的にはシリアより「寛容」に見えました。たとえば、神殿に異教の神像を設置しなかったという点ではそうかもしれません。しかし、ルカ13章に記されている「ピラトの乱暴」などから分かるように、ローマの支配は常に不安を抱かせるものでした。ユダヤの宗教者たちが願っていたのは、「マカバイやダビデのような英雄」の登場でした。突き詰めれば「強力なリーダーの出現と、リーダーによるユダヤ民族の救済」でした。主は、まさにこのような背景の中、神殿奉献記念祭に現れたのです。


 しかし主イエスは、「単一民族の救い」ではなく、「すべての人々の救い」を意図されていました。「この囲いに属さない他の羊も導く」と語られる通りです。主は、人々の視線を広い世界に向けさせるというよりも、「自分と向き合う」「身近な関係に目を向ける」ことを促されます。 「私の羊は私の声を聞き分ける」と言われる主の言葉は、聖書や日常の中で聞こえてくる様々な声に、ユダヤの宗教者たちが耳を傾けているかを問います。当時、ローマへの徹底抗戦を叫ぶ「熱心党」のような人々の声もありました。その一方で、日々の生活に苦しみながらも生きる人々もいました。主の心は、そうした名もなき一人ひとりと共にあったのです。


 この世において、日々生活を、労苦しながら生きる人々は、決して高い報酬や名誉を得ることはありません。ルカ13章に見られる「ピラトの乱暴」や理不尽な災害のような出来事に打ちのめされつつ、それでも生きていました。主は、そのような人々と共におられました。 だからこそ、ここで「永遠の命」という特別な言葉が語られるのです。主は「英雄」として人々を導くこともできたでしょう。しかし、そうはされず、み言葉と神の優しさによって、一人ひとりを育もうとされたのです。


 ヨハネ福音書は「季節は冬であった」と記します。これは、ヨハネ7章の秋祭り「仮庵祭」に続くものであり、文字通りの意味もありますが、同時に「信仰生活の冬」をも象徴しているように思えます。
 主は「囲いの外」の羊にも目を向けつつ、季節が冬であっても、ご自身の働きを止めないと語られました。季節がどうあれ、私たちの心の中に「冬」を感じるときでも、そこに主は共におられます。
 「戦うあなたの傍に」主は確かにおられ、今日も私たちを支えてくださるのです。