2025年5月20日火曜日

5/15.17.18 キティちゃん新幹線、西宮、柳井、防府、徳山玄関

 

 5/17(土)柳井の方から頂いたバラを、5/18(日)徳山の礼拝でお捧げしました。

 5/20(火)現在、玄関にあります。

 5/18(日)防府の礼拝もバラ。

 5/17(土)柳井の礼拝堂。
 5/15(木)西宮教会を訪問しました。

 写真はアーモンド。今年1月に召天された教会員が、記念のために植えられたのです。

 5/15(木)新幹線を一本、徳山で乗り過ごしたために見られた「キティちゃん新幹線」。

 これに乗り、広島で乗り継いで新神戸→香櫨園と出張しました。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

5/24 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

5/25 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

5/28 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

5/31 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

6/1 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

本日の礼拝説教の要旨は以下の通りです。

復活節5主日 朗読用説教 

ヨハネ福音書1331-35節 「夜に輝く愛」

水原一郎

   「ヨハネ福音書133135節」がこの日の福音書日課です。今日は、「イスカリオテのユダへの愛」を通して、聖書のみ言葉から力を頂きましょう。


   「イスカリオテのユダ」には、「裏切者」という代名詞がつけられています。四福音書すべてに、ユダが主イエスを裏切ったこと、結果として主の十字架と死に至ったことが記されます。ですから「裏切者」という名は、必然的と言えます。主イエスがユダをどう見ていたかは、マタイとマルコでは「生まれなかった方がよかった(マタ2624、マル1421)」、ルカでは「災い(ルカ2222)」と、厳しい評価がなされています。一方、ヨハネ福音書では「裏切り」は描かれつつも、その評価は「神の計画の一つ」とされており、ユダの行動は、神の導きのうちにあったと記されているのです。


    今日の聖書箇所は「ユダが出て行くと(31)」から始まります。なぜユダは出て行ったのか。それは主を裏切るためです。が、きっかけは神さまや主にあるとの書き方です。一つ目は、「サタンが彼の中に入った(27)」ことです。サタンという言葉は今日は「悪の権化」と解釈されますが、主の時代には「神の家来」という意味もありました。つまり、ユダの行動も神の計画の一環であったということです。二つ目に、主イエスご自身がそれを知ったうえで「しようとしていること(裏切りの手引き)を、今すぐしなさい(27)」と言われたことです。ヨハネ福音書は、ユダの裏切りが(1)神の計画、(2)主イエスの促し、この二つに根ざしていることを示しているのです。


   主が「人の子は栄光を受けた」と言われるのは、ユダの裏切りと、続くご自身の十字架と死が「神の計画」だからです。ご自身の苦しみと死は、人間的には避けたいものです。しかし主は、神がご自身を全ての人の救いと支え、助けのために用いられることを喜びとされました。神に用いられるゆえに、神がご自身の行く先をも守ってくださるという確信がありました。そしてこれは、私たちにとっても同様のことです。


   主は以前、「私と父とは一つである(1030)」と言われました。133132では、神と主イエスが互いに栄光を与え合う関係が繰り返し語られます。そして主は、「私が行くところに、あなたがたは来ることができない」と言われます。主が「行くことができる」場所、そして弟子たちが「来ることができない」場所とはどこでしょうか。旧約において「祖先の列に加えられる(創4933)」と表される陰府(よみ)と見なせます。なぜ弟子たちは「来ることができない」のか。それは、主の十字架、死、そして復活を経た後、陰府を通り越して、一直線に「永遠の御国」に招かれるからです。


   この約束の後、主は「新しい掟」を語られます。実は「互いに愛し合う」という教え自体は新しいものではありません。レビ1918に原型があります。「新しさ」とは、「主からの愛」。神と主イエスの本質の一致を踏まえれば、「神からの愛」。ヨハネ福音書では、この聖句を挟んで「ユダの退出」と「ペトロの裏切り」が示唆されます。しかし主は、そのような弟子たちに「神の愛」、「ご自身の愛」を惜しみなく語るのです。


   このみ言葉があるからこそ、ヨハネ福音書はユダの「酷い最後」を描かないのです。ヨハネ福音書の時代、ユダは地上の命を既に終えています。ですが、終わりに至るまで、彼の心には「神の愛、主からの愛」があったと言えるでしょう。「夜(1330)」という時間帯は、裏切り後のユダの心の状態を象徴していると言えます。そのユダを包んでいたのが、「夜に輝く愛」主イエスから、神からの愛そのものでした。


   私たち自身の直感や理性は、「裏切り」を拒否します。おそらく、それは私たちの道徳観によるのでしょう。一方で私たちは、神さまから愛を受けていながらも、その愛に十分に応える歩みをしているとは言えないのが現状です。「愛を裏切っている」のです。しかし、イスカリオテのユダをも愛された主の愛は、今週も私たちと共にあります。その愛に支えられる喜びを思いながら、週日を歩んでまいりましょう。

    祈り(約1,650字)