2026年3月17日火曜日

3/11六日市、3/14柳井、3/15防府の桜、3/15徳山の桜、

 

 3/15(日)防府チャペル裏手にある桜。一足早いものですね。
 3/15(日)徳山チャペル礼拝堂。
 3/14(土)柳井チャペル礼拝堂
 3/13(金)徳山チャペルの外の桜。

 この桜を植えたと伝えられるご婦人のもとに、来週面会します。

 3/11(水)六日市チャペル礼拝前。

 何か、新しい命を思い起こさせます。


今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。


3/18 水曜日 16時 六日市チャペル礼拝 

3/21 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

3/22 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝

3/25 水曜日 16時 六日市チャペル礼拝 

3/28 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

3/29 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

3/15(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 


四旬節第4主日 説教 

ヨハネ福音書91-41節 「あなたの中の、神の業」

水原一郎

 今日の福音書には、生まれつき目の見えない人が登場します。弟子たちは主イエスに尋ねました。「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか、それとも両親ですか」。苦しみには原因があるはずだ、という問いです。しかも「生まれつき」であるなら、本人以外に理由を求めるしかない。そうして人は、苦しみを誰かの罪に結びつけます。この思考は遠い昔のものではありません。私たちもまた、「なぜ自分が」「誰のせいなのか」と問い続けます。その問いは理解を求める叫びであると同時に、苦しみを裁きへと変えてしまう危うさを含んでいます。


 主イエスは、その因果論を退けられました。「本人の罪でも、両親の罪でもない」と。けれども、ここで主は苦しみの理由を説明されたわけではありません。なぜ彼が盲目なのか、その背景は語られないままです。聖書は、すべての苦しみの「原因」を解き明かす書物ではありません。ここで起きているのは「神の沈黙」でしょうか。もちろんそれもあります。それに加えて「問いの転換」です。主は「なぜ」という問いを抱く人に語ります。それは「いま、この現実の中で神が何をなさるか」ということです。そこに視線を向けるよう、優しく促す方なのです。神は苦しみを望まれた、とは語られません。しかし同時に、それを無意味な闇、出来事として放置される方でもないのです。


 主イエスは言われます。「神の業が、この人に現れるためである」と。この言葉は、神が彼を盲目にしたという宣言ではありません。すでに存在しているこの現実のただ中で、神の業が現れるという宣言です。神は苦しみを作り出す人ではなく、その只中にあり、「なぜ」と問いかける人に働きかける方です。主イエスは土をこね、彼の目に塗り、シロアムへ遣わされました。彼は従い、洗い、見えるようになります。ここで変えられたのは「目が見えない」という出来事の意味づけでした。苦しみはもはや「罰のしるし」として固定されず、神が働かれる場として開かれたのです。


 しかし物語はさらに深まります。癒された彼は、宗教指導者たちに問い詰められ、ついには会堂から追い出されます。見えるようになった者が排除され、見えると自負する者たちが実は見えていないことを露わにします。主イエスは言われます。「私は世の光である」。光は慰めであると同時に裁きです。光は闇を照らすだけでなく、私たちの思い込みも照らします。盲人は「あの人」から「主よ、信じます」へと信仰を深めていきました。しかし指導者たちは、自分は見えていると言い張ることで、かえって盲目にとどまりました。ここで問われているのは、私たちがどちらに立つのかということです。


 この福音は、今日の私たちにも向けられています。私たちの苦しみの理由がすべて説明されるわけではありません。罪と苦しみが無関係だと単純に言えるわけでもありません。しかし少なくとも、目の前の苦しみを直ちに神の罰と断定することはできないのです。四旬節、私たちは主イエスが十字架において人類の闇を引き受けられたことを覚えます。神は苦しみの外から論じる方ではなく、その中に立たれる方です。「神の業が現れる」。「神の業」とは、病気が消えること、仕事の成果が出ること、苦しみが消えることではありません。共にいてくださる神を知るようになること。成果が出なくとも、私という人間の価値が揺るがないことを知ること、絶望だけが最後の言葉でないと知ること。それもまた、神の業です。私たちはそのことの証人とされているのです。