3/24(朝)徳山礼拝所の、先週の献花と今週の献花の様子。
今朝は晴れで、朝の光が礼拝堂に満ちています。
この水仙、すばらしい香りです。説教壇にまで届きます…。
3/18(水)こちらは六日市礼拝の直前。水仙が咲いています。
今週以降の行事は、以下のとおりです。
いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。
3/25 水曜日 16時 六日市チャペル礼拝
3/28 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
4/1 水曜日 16時 六日市チャペル礼拝
4/4 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
4/5 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び
10時45分 徳山チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
3/22(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。
四旬節第5主日 説教
ヨハネ福音書11章28節-45節 「墓の前で、主は泣かれた」
水原一郎
① 私たちは、「死」に対して二つの距離感をもって生きています。遠い国の戦争、見知らぬ人の訃報。それらに心は痛みますが、日常の中に埋もれます。これは「三人称の死」、つまり「誰かの死」です。しかし、自分のすぐそばにいる人、家族、友人、愛する者の死に直面したとき、私たちは全く違う仕方で打ちのめされます。時間が経っても癒えず、深く心をえぐることさえあります。これは「二人称の死」、「あなたにとって、大切な人の死」です。今日の福音書に登場するマリアは、まさに「二人称の死」のただ中に立ちます。兄ラザロを失い、取り消すことのできない現実に立たされているのです。
② マリアは主イエスのもとに来て、こう言います。「主よ、もしここにいてくださいましたなら、私の兄弟は死ななかったでしょう。」この言葉は、非難というよりも、間に合わなかった現実の前でこぼれ落ちた、悲しみと信頼の入り混じった叫びです。マリアは、主イエスを信じていなかったのではありません。信じていたからこそ、主イエスの不在が、取り返しのつかないことを引き起こした、痛みとして感じたのです。主イエスは、泣くマリアと、共に泣く人々をご覧になります。そのとき、福音書は「心に憤りを覚え、動揺された」と記します。この憤りは、人々の涙に向けられたものではありません。人の命を奪い、関係を引き裂き、愛する者を引き離す「死の力」そのものに向けられた憤りです。
③ そして、短く、しかし決定的な言葉が記されています。「イエスは涙を流された。」ここに、今日の福音の核心があります。主イエスは、死を遠くから眺め、説明し、意味づけるお方ではありません。「誰かの死」として処理されがちな現実を、「あなたにとって、大切な人の死」として引き受けられるお方です。主イエスは、死によって引き裂かれた関係のただ中に立ち、マリアの涙を、ご自身の涙として流されました。私たちの家族の死、教会の愛する兄弟姉妹のその喪失は、主イエスにとっても他人事ではありません。主イエスは、私たちの「二人称の死」を、真正面から引き受けてくださるのです。
④ しかし、主イエスは涙だけで終わられません。墓で、大声で叫ばれます。「ラザロよ、出てきなさい。」それは、死の支配に対して発せられた、権威ある命の呼び声でした。閉ざされた墓、終わったとされていた命に向かい、神の言葉が放たれたのです。ラザロの復活は、再び死を迎えるという意味で、最終的ではありません。それでも、この出来事ははっきりと告げています。死は、最終的な支配者ではないことを。ラザロを眠らせた死は、主イエスの言葉の前で、絶対的な沈黙を保つことはできなかったのです。
⑤ しかし、この奇跡は、安らかな結末をもたらしませんでした。ラザロが生き返ったその直後から、人々はイエスを殺す計画を立て始めます。ラザロを墓から呼び出すために、主イエスは、十字架へと歩み出されたのです。その歩みは、偶然ではなく、神のご計画の中で引き受けられた道でした。主イエスは、命を呼び出す声の代価を、ご自身の死によって支払われました。それでもなお、主は叫ばれます。「出てきなさい」と。それは、墓の中のラザロだけに向けられた声ではありません。死に慣れ、諦めの中に閉じこもっている私たち一人ひとりに向けられた声です。四旬節の歩みの中で、墓の前で泣かれ、なお私たちを呼び出される主の声に押し出されて、私たちは今ここを、生きる者として歩み出したいと願います。



