2026年7月14日火曜日

7/10徳山にオタマジャクシがきました 7/11柳井 7/12 徳山、防府

 

 7/12(日)防府チャペル。

 本格的な夏が到来しました。つまり、暑いです。

 7/11(土)柳井チャペル。

 外に立っているだけで、顔が日焼けするほどの暑さ。

 7/10(金) 教会員のお知り合いが「オタマジャクシ」をたくさん下さいました。

 メダカと並んで、涼感を出すことでしょう。

 しかしこの人たちは、成長します。

 7/12(日)朝の徳山チャペル。

 またこの時間は涼やかな礼拝堂です。


今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。


7/15 水曜日 17時 六日市チャペル 礼拝 

7/18 土曜日 15時 柳井チャペル 礼拝 

7/19 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び この日のみ、休会となります。

       10時45分 徳山チャペル 礼拝

       15時30分 防府チャペル 礼拝

7/22 水曜日 17時 六日市チャペル 礼拝  

7/25 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

7/26 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

7/12(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 

聖霊降臨後第5主日 説教 

マタイ福音書131-9節 「心に蒔かれた種」

水原一郎

① マタイ福音書131節。その日、主イエスは湖のほとりに座られました。しかし群衆があまりにも多かったため、舟に乗り、岸辺に立つ人々に語られます。この穏やかな情景の背後には緊張があります。すでに主は拒まれ始めていました。聞いているのに悟らない人々。しるしを求めながら、主ご自身を受け入れない心。その現実のただ中で語られたのが、種をまく人のたとえです。これは「もっと努力しなさい」という道徳的勧告ではありません。むしろ逆です。御言葉はすでに語られている。種はすでに蒔かれている。その事実に私たちはどう向き合うのか、が問われているのです。


② 種とは神の御言葉です。そして驚くべきことに、種まきは惜しまれません。道ばたにも、石地にも、茨の中にも蒔かれます。効率も成功率も計算しない蒔き方です。ここに福音があります。御言葉は整った心を探してから与えられるのではありません。まだ固く、浅く、絡みつかれている心にも、先に蒔かれるのです。しかし主は後に、悪い者が来て御言葉を奪うとも語られます。困難が根を枯らし、思い煩いと富の誘惑がふさぐとも言われます。四つの土地は人の分類ではなく、私たち自身の折々の姿です。礼拝で確かに聞いたはずなのに、失われることがある。しばらくは喜んでも、揺らぐ。「私は結局、実を結ばないのではないか」と不安になる。その葛藤を、主はご存じなのです。


③ それでも主は言われます。良い土地に落ちた種は三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ、と。三十倍でさえ、当時の農業では驚異的でした。それは人間の成果ではなく、神の介入です。奇跡と言ってよい。百倍は理想像ではありません。「ここまで到達しなければならない」という基準でもありません。それは御言葉の命の豊かさの描写です。決して人生の苦しみを賛美するわけではありません。渦中の方もおられることでしょう。しかし、思い煩いが頂点にある時でさえ、主はそこにも御言葉を蒔かれます。そして御言葉には、人には見えないところで芽を出す命があるのです。


④ 前任地の久留米でこんなお話を伺いました。久留米空襲によって町は焼け野原となり、「これからどう生きていけばよいのか」と途方に暮れていた中で、教会で「疲れた者、重荷を負う者は、わたしのもとに来なさい」という主の御言葉を聞き、その言葉が生涯の支えになりました。また、仕事を失い、趣味のラジオの組み立てで何とか生活をつないでいた時、「ルーテルアワー」のラジオ放送から流れてきた同じ主の御言葉に慰めを受け、教会へと導かれた方もおられました。その時、その人自身も、あえて言えば「思い煩い」のさ中でした。御言葉の種が蒔かれたことには気づきませんでした。しかし、人には見えない所で、神は御言葉を育て続けていたのです。


⑤ 私たちが信頼するのは、自分の心の状態ではありません。御言葉により働く主です。では、私たちは蒔かれた御言葉をどう受け止めるのが良いか。ただ、受け取るので良いのです。信仰とは、握ることではなく、握られること。御言葉を働かせる力ではなく、御言葉に働いて頂くことです。心が固いと感じる日も、思い煩いに覆われる日もあるでしょう。それでも御言葉には命があります。今日も主は、この礼拝で種を蒔いてくださいます。来週も、主は蒔き続けてくださいます。私たちはその約束のもとに身を置き続けるのです。蒔かれた種は、神ご自身が育て、必要なときに実らせて下さいます。だから、今日も聞き続けるのです。「成長させて下さったのは、神です(主題聖句)。」