2025年11月25日火曜日

11/20ゆずしいたけ、11/22柳井、11/23防府、11/25徳山

 

11/25(火)雨の徳山礼拝所。

夜半からの雨は、紅葉を散らしました。いよいよ冬。

落ち葉の掃除は明日の仕事となります。

11/23(日)防府礼拝所。献花は一足早くポインセチア。
11/22(土)柳井礼拝所。会員の方が花壇を整備されました。
11/22(土)同じく柳井礼拝所。看板も新調されました。

関係する法人の職員の方々のお働きです。

11/20(木)その前日頂いた「原木しいたけ」とゆずの合作。

これはたまりません。箸が止まらず、気づいたら二個。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

11/26 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

11/29 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

11/30 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝 

12/3 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

12/6 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

12/7 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝 

11/23(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 


聖霊降臨後最終主日 説教 

ルカ福音書2333-43節 「動く私、支える神さま」

水原一郎

①  教会の暦で「聖霊降臨後最終主日」を迎えました。2025年という歩みを思い返す時になっています。秋の終わりという季節です。年末よりは1カ月前、心静かに思い出し易いと言えます。家族や大切な方を送った方もおられるでしょう。危機には至らず一年を終えられた方もいるでしょう。いずれにせよ、誰一人として“何もなかった”一年などありません。この最終主日は「王なるキリストの日」とも呼ばれます。しかし聖書が私たちに示す“王”は、権力や成功の象徴ではなく、苦しむ者と共に立ち、なお他者に心を向ける王です。今日は、その姿に一年の自分自身を重ねたいと思います。


② 十字架にかけられた主イエスは、マタイとマルコ福音書では、詩編22編を口にされます。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになるのですか。」詩編22編は、痛みから始まり、神への信頼へと歩み出す祈りです。ルカでは主イエスの叫びの記述はありません。しかし主イエスの周囲では、詩編22編が描く事が起こります。着物はくじで分けられ、人々は主をあざける。しかし、注目したいのは、主イエスがご自身の苦しみに閉じこもられなかったという点です。主イエスは叫ばず、代わりに、赦しと回復の言葉を語ります「父よ、彼らをお赦し下さい。」「今日、あなたは私とともに楽園にいる。」ルカは、見捨てられたと叫ぶ主イエスではなく、見捨てようとしない主イエスを描きます。苦しみが極まった時、人は自分の痛みに閉じこもります。しかしイエスは、そこでも「他者へのまなざし」を持ちます。「動かない十字架上の主」が、今日の主題です。


③ 主イエスの左右には二人の犯罪者がいました。片方は苦しみのあまり、おそらく弱々  しい声で主を罵ります。もう片方は、同じ弱々しい声で、ただ一つの願いを口にします。「あなたが御国においでになる時には、私を思い出してください。」こちらの犯罪者は、自分が御国に入る資格などないと思っていたのでしょう。ただ、“忘れないでほしい”“あなたの記憶に留まりたい”と願ったのです。苦しみの中で、人はしばしばこの二人のどちらかの姿になります。怒りがあふれる者もいれば、声にならない助けを求める者もいる。私たちの一年の中にも、この両方があったはずです。


④ では主イエスはどうされたか。「はっきり言っておく。あなたは今日、私と一緒に落年にいる。」主イエスは、彼の“罰を受けるべき犯罪者”としての過去ではなく、苦しみの中で差し伸べられた、ただ一つのささやかな信頼に目を留められました。ご自身が死の淵に立ちながら、なお他者の痛みと願いに心を向ける。ここに、王なるキリストの本当の姿があります。対象は、人生における揺れ動きを体感した犯罪者。そこに赦しがあります。このお方が、私たちが心を向けている主イエスなのです。


⑤ この最終主日に覚えたいことは一つです。「動き続ける私たちを、動かず支える主がいる。」状況は変わり、私たちも揺れ続けました。恐れに傾いた日も、怒りに傾いた日も、祈りすら形にならなかった日もありました。それでも主は、揺れる私たちを手放さず、十字架という“動かない場所”から支え続け、赦されておられました。詩編22編が「嘆き」から「信頼」に向かったように、十字架の犯罪者が「絶望」から「楽園」へ導かれたように、私たちの一年にも同じ主の御手が働いていました。来る年、私たちはまた動きます。揺れます。迷います。立ち止まるかもしれません。しかし、動く私を、動かず支える主が共におられる。その確かさのうちに、新しい歩みを始めましょう。




2025年11月18日火曜日

11/15 柳井礼拝所、11/18 徳山のブナ、ヤマボウシの紅葉

 

11/15 柳井礼拝所です。この日は子ども祝福礼拝が行われました。

余りにもきれいな青空。

11/18 徳山礼拝所の正面左側。

ヤマボウシの紅葉。

11/18 正面右側から礼拝堂入口。

ブナの木とそのふもとの菊。秋も深まっています。

11/18 8:45現在、今の気温は9度。


今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

11/19 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

11/22 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

11/23 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝 

11/26 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

11/29 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

11/30 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝 

11/16(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 

聖霊降臨後第23主日 説教 

ルカ福音書215-19節 「神さまが見守る毎日」

水原一郎

 教会の暦は11月、「終わり」を意識する季節となりました。「終わり」と聞くと、死や世界の終わりを思い起こし、不安や恐れを感じることもあるでしょう。実際に、この社会では、数年前の戦争に始まった、そしてそれ以前には類を見なかった「自分の国や地域」を優先する動きが広がっています。他者を尊重しない態度がどこへ行くのか、先が見えないだけに心配になります。しかし、教会で語られる「終わり」とは、破滅や滅亡の予告ではありません。神さまの愛が全てを包むことが明らかになる時です。

 

 今日の福音書では、弟子たちがエルサレムの壮麗な神殿に目を奪われている場面から始まります。46年(ヨハネ2章)かけて建てられた神殿は、弟子たちにとっても「宗教的な誇り」と、「自分たちの親、祖父祖母」の捧げた力の象徴でした。しかし主イエスは「この神殿が崩れ去る日が来る」と告げられます(21:6)。弟子たちは驚き、「それはいつ起こるのですか?どんなしるしがありますか?」(21:7)と尋ねます。主イエスは具体的な日時を示すのではなく、惑わされずに、恐れずに、忍耐をもって「証し」を続ける大切さを教えられます。主イエスが言われたこの「証し」とは、弟子たちにとって、また私たちにとって何を、どういうことを意味するのでしょうか。

 

 言葉通り、文字通りのことで言えば「教えに殉ずる」という極端なことになります。「殉ずる、つまり殉教する」。いのちを預ける、生活を捧げる。これは現実的ではありません。むしろ、心を乱す、それは「戦争、暴動、地震、疫病」などの中で「惑わない」「落ち着いて生きる」ことを意味すると見ます。これらのことは、時代を問わず存在します。主イエスはそれらを「終わりそのもの」として恐れる必要はないと語られます。むしろ、聖書が問うのは「どう生きるか」という姿勢です。そのことを踏まえて、更に主イエスは告げられます。「あなたがたは私の名のために引き渡されることになる」(21:12)。これは弟子たちにとっては「迫害や投獄、誤解や中傷」を意味します。私たちにとっては、「惑わされる様々な出来事」と言い換えられます。心を乱し、惑わす現実に直面する弟子たちに、そして私たちに主は恐れではなく、希望を示そうとしているのです。

 

 「あなたがたの髪の毛の一本も決して失われることはない」(21:18)。これは、体のもっとも小さな部分であっても、神さまの守りが及ぶという保証です。ルカ12:7では「髪の毛一本でも数えられている」神さまの守りの中にあるとしています。拠り所を失い、孤独や裏切り、災害に悩まされる時でも、神さまは見捨てず、共にいてくださいます。拠り所として大きく映るのは、「神殿」です。しかし主イエスは、その神殿が覚える神さまこそが日々を守ると言われます。その神さまを信頼し、自分の近くにいる人々を尊重し、日々を生きることが大切です。私たちの人生にも、崩れゆくものや不安があります。しかし、どんな「終わり」が見えても、神の愛は決して終わりません。その愛に包まれ、私たちは一日一日を、主イエスの導きの中で生きるものであるのです。

 

⑥ ルカ福音書は、「神殿が崩壊」した後に編集されたものと言われています。「戦争後」という言葉が当てはまります。神殿を含む大切な構造物は崩れ、愛するものを無くした人々の嘆きは続き、その中で日々の営みに生きる人々が福音書を書いたルカの前にいました。ルカは、かつて主が言われた「髪の毛一本でも神の眼差しにある」という教えを思い起こし、書いたのです。それが今日、私たちにも届いています。 



2025年11月11日火曜日

11/5六日市の落花生、11/9防府、11/11徳山

 

11/11(火)徳山礼拝所の庭。

頂いた献花を植え替えました。

11/9(日)徳山礼拝所の礼拝後に、教会員の方がプランターの植え替えをされました。

手前では、菊が開花を始めています。

11/9(日)防府礼拝所。

聖霊降臨節の礼拝も、あと少し。

11/5(水)手前に映っているものは何でしょうか。

どちらかのご家庭が干している落花生。

礼拝後には引き上げられていました。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。


11/12 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

11/15 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

11/16 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝 

11/19 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

11/22 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

11/23 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝 

11/9(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 

聖霊降臨後第22主日 説教 

ルカ福音書2027-40節 「笑顔で私たちを待つ方」

水原一郎

 人生には避けがたい別れがあります。愛する人との死別、病や孤独、老い、失望――それらは誰もが通る道であり、避けることはできません。主イエスの時代も同じでした。当時のユダヤの死生観には「陰府」や「火」という、暗く厳しいイメージがありました。死はすべての終わりを意味する、かのように感じられていました。旧約聖書は、本来「神さまが、この地上を人々と共に生きる」ことを語る書です。荒野をさ迷った人々や、捕囚の民を支えたのは、神さまが「共にある」という約束でした。「死後の世界」への関心は薄かったと言えます。しかし主イエスは、格差や不安、争いが広がる社会の中で、人々に希望を語られました。それは、死を越えてもなお、神の記憶の中に生き、神に覚えられている命であり、絶え間ない慰めと光をもたらすのです。


 本日の福音書には、主イエスとサドカイ派との問答が記されています。サドカイ派は復活を信じず、「死んだら終わり」と考える人々でした。彼らは裕福で権威ある立場にあり、主イエスに試すように問いかけます。「七人の兄弟が一人の女性と順に結婚したら、復活の時、彼女は誰の妻になるのか」。表面上は律法の問題に見えます。が、「復活を嘲る意図」これほど事態は複雑になるという揶揄の心があります。主イエスはこの挑発から逃げず、むしろ問いを発する者たちの心の奥にある「人々の苦しみや社会の不安に目を向けない態度」を見抜かれました。そして、力強く答えます。


 「復活の命」とは、この世の制度や形式の延長ではありません。結婚や血縁の枠を超え、神のいのちに生きること、それが復活です。「復活にあずかる者は、もはや死ぬことがなく、天使のようになる」と主は語られました。ここで言う「ふさわしい者」とは、努力や資格を積んだ人ではなく、神の憐れみに包まれた者を指します。神は命を終わらせたいとは望まれません。創造の業として与えられた命は、永遠に続くものです。地上で日々を必死に生きる人々も、神の手の中で天使のように自由で伸びやかな命に導かれる約束があります。この言葉は、聞く人の心に深い安心と希望を生みます。


 主イエスはそのことを示すため、サドカイ派が重んじる「出エジプト記」の中、3章を引用されます。「私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と。これは「あった」ではなく、「である」。つまり彼らは今も神と共に生きているのです。肉体は滅びても、神との関係は絶えません。神は過去の人の神ではなく、今も生きておられ、私たち一人ひとりを生かしておられる方です。このことを心に刻むと、悲しみや孤独、喪失の現実も、新しい光の中で意味を持ち始めます。私たちもまた、避けがたい別れや喪失の中で生きています。愛する人を失った痛み、病の苦しみ、孤独の暗闇――そのとき「死んだら終わり」と思えば、人生は空しく、心は沈みます。しかし主イエスははっきりと告げられます。「神は、生きている者の神である。神にとって、すべての者が生きている」と。神の憐れみの中では、死は終わりではなく、新しい命の始まりなのです。


 私たちはすでに神のいのちの中で生かされています。過去も現在も未来も、神の御手の中にあります。愛する人々も、神のもとで生き続けています。私たちもその命の流れの中にあります。主イエスが語られた「生きている者の神」との出会いを胸に、希望をもって日々を歩みましょう。死を越えて続く神の命のうちで、今日も私たちは共に生かされているのです。神の慰めと力を信じ、日々の歩みを進めていきましょう。


2025年11月4日火曜日

10/28呉教会、10/30西宮、10/31ハロウィン、11/1柳井、11/2徳山、11/3宇部

 

11/3 るうてる秋の大会が行われました。

会場は宇部教会。都南教会の安田真由子氏を招いての講演会でした。

11/2(日)防府礼拝所の全聖徒主日の様子です。
10/31(金)これは…ハロウィンミカン。

ハロウィンとミカンを融合させたそのセンスが素晴らしいと思います。

あ・・・オレンジカボチャの代わりに、ミカンなのね。

11/1(土)柳井礼拝所の召天者記念礼拝。

礼拝に先立ち、召天20年を迎える信徒の方の記念会を行いました。

10/30(木)兵庫の西宮教会に出張してきました。

植えた方は召天されましたが、ブンタンは実っています。

10/28(火)牧師の研修会で呉に行きました。

「クレアライン」は、2018年の西日本豪雨からの復旧作業が行われていました。

これは、呉教会の屋上から市内を臨んだものです。

呉教会
呉教会②

 今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。


11/5 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

11/8 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

11/9 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝 

11/12 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

11/15 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

11/16 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝 

11/2(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 


全聖徒主日 説教 

ルカ福音書191-10節 「主の記憶に生きる人々」

水原一郎

① 本日、私たちは「全聖徒主日」を迎えています。この日は、神さまによってこの世に命を与えられ、今はすでに天の御国へと召された方々その方々との「出会いの出来事」を覚える日です。私たちは日々、多くの人とすれ違います。けれど人生を共に歩み、祈り、支え合った人は限られています。親や兄弟、友や信仰の仲間。その方々と共に過ごした時間が、私たちの心に残り続けています。神さまは、一足早くその方々を御もとに召されました。けれども今日の福音書、徴税人ザアカイの物語は、彼らが今どこにいるのか、そして私たちとのつながりがどのように続いているのかを示してくれます。


② 舞台はエリコの町です。そこに、徴税人の頭ザアカイがいました。彼はローマ帝国の手先でした。同胞から税を取り立て、不正と搾取にまみれた存在と見なされていました。主イエスが町に入られたとき、ザアカイもその姿を見たいと願いましたが、背が低く、群衆にさえぎられ見ることができません。誰も彼に道を譲ろうとはせず、彼は人々の間に居場所を失っていました。けれども彼は、あきらめずに先回りして木に登ります。


③ 主イエスはその木の下を通られます。そして見上げて言われました。「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日はぜひ、あなたの家に泊まりたい」。ザアカイが名乗ったわけでも、呼びかけたわけでもありません。主イエスの方が、ザアカイの名を呼ばれたのです。拒まれることに慣れていたザアカイにとって、この呼びかけは、自分が「主イエスに知られ、覚えられていた」という慰めそのものでした。尊い方の記憶の中に、自分の名が刻まれていた――その気づきが、彼の人生を変えていきます。

④ 主イエスとの出会いは、ザアカイに三つの恵みを示します。第一に、孤独からの解放。「今日はあなたの家に泊まりたい」と言われた言葉に、彼は「自分が愛されている」という確信を得ました。第二に、喜べる日々の回復です。彼は自らの過ちを思い出し、「財産の半分を貧しい人々に施し、だれかからだまし取ったなら四倍にして返します」と語ります。主との出会いによって、富ではなく他者と共に生きる喜びを取り戻したのです。第三に、主は彼を「アブラハムの子」と呼ばれました。もはや彼は蔑まれた過去に縛られず、神の約束にあずかる者として、新しい群れに迎え入れられたのです。


⑤ このザアカイの姿は、私たちが今日覚える召天者の方々と重なります。主イエスは、彼ら一人ひとりの名を呼び、記憶しておられます。(ここで本年度、ご召天になった方のお名前を入れても良い。)明確な信仰の言葉を残さなかった方であっても、主のまなざしの中で見いだされているのです。人には見えない心の痛みや渇きも、主はすでにご存じです。そして、私たちもまたその同じまなざしの中に生かされています。


⑥ ザアカイは木の上から降りて、主イエスを自分の家に迎え入れました。私たちもまた、心の奥に主を迎え入れ、過ぎ去った日々の出会いを神の記憶のうちに委ねたいと思います。地上の旅路が終わっても、主のもとでの新しい出会いが始まっているのです。復活の主は、死を越えて私たちを結び合わせ、再び顔と顔を合わせる希望を与えてくださいます。「ザアカイ、急いで降りてきなさい」と呼ばれたその声は、今も私たちに響いています。主のまなざしに支えられつつ、私たちもまた日々を歩みましょう――覚えられ、名を呼ばれ、いつか再び出会う希望のうちに。

 




2025年10月27日月曜日

10/22六日市の夕陽と柿、10/26防府、10/18柳井、10/27徳山

10/22(水)六日市礼拝後の夕日。

息をのむほどきれいだったので撮りました。

ティンダル現象(チンダル現象)、光の筋が見える一瞬でした。

10/26(日)防府礼拝所。宗教改革主日の礼拝。
10/25(土)柳井でも礼拝が行われました。

写真は10/18(土)散歩中に撮った写真。

「いちごの花」と呼んでいました(誰が?)。

10/22(水)六日市礼拝所の礼拝前。

教会員のお宅の甘がきを撮らせていただき、採らせて頂きました。

甘さ控えめで、果実としても、酢の物(柿なます)としても頂きました。

10/27(月)徳山礼拝所の朝。こちらは朝日。


 今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。


10/29 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

11/1 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

11/2 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝 

11/5 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

11/8 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

11/9 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝 

10/26(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 


宗教改革主日 説教 

ルカ福音書189-14節 「今あるは、ただ神の恵み」

水原一郎

 ルカ福音書18914節の日課が与えられています。本日は「宗教改革主日」です。今日の福音書には、神殿で祈る二人の人の姿が描かれています。ファリサイ人と徴税人。どちらも祈りを捧げています。しかしその祈りの中身と姿勢は正反対です。このたとえを通して、主イエスは何を示そうとされたのでしょうか。そして、それはルターが宗教改革を始めるに至った出来事と、どのように響き合うのでしょうか。


 主イエスは「自分を正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」にこの話を語られました。確かに私たちも、社会の中で自分の正しさを探り、確かめながら生きています。しかしその歩みの中で、知らず知らずのうちに「うぬぼれ」や「見下し」が生まれてはいないでしょうか。ファリサイ人の祈りは、一見すると感謝の祈りですが、実際には自分の功績を並べた自己賛美でした。「この徴税人のようでなくて良かった」と他を見下し、祈っているようで神を見上げてはいません。主イエスは「この人は義とされなかった」と語られます。


 対照的に、徴税人は目を天に向けることすらせず、胸を打ちながら祈ります。「神さま、罪人の私を憐れんでください」。彼は自分の「結果」を、これまでを見つめます。過ちの多さを言い訳しないで、ただ神の憐れみにすがって祈ります。徴税人とは、当時、ローマ帝国の手先として民から税を取り立てていました。取り立てる金額は徴税人に任されていたことから、不正の温床ともされていた存在でした。主イエスは、この徴税人の「祈り」「神さまのみ前に悔い改める祈り」を通して「義とされる」と言われます。


④ 「たとえ話」の登場人物の背景や設定を推測します。ファリサイ派も徴税人も、他者との関わりに生きる職業です。ファリサイ派は他者の律法にそぐわない行動を指摘し、場合によっては罪を宣告します。徴税人は他者の家に立ち入り、規定の税金やその他を奪い取るものです。いずれも二人の歩みの一部の「切り取り」にすぎません。が、決して楽ではない職業と察します。なぜならいずれも、関わる中での激しい抵抗を感じられるからです。両者とも、普段はその職務を粛々と行うものです。そして神の前で、ファリサイ派は自身の罪に気づかず、さらに徴税人を陥れる罪を重ねます。一方で徴税人は、自分の過ちを反省し、ただ神さまの憐れみを求めるものなのです。


⑤ 本日は宗教改革主日です。この事業を成し遂げたルターは、事柄を行うだけのエネルギーに満ちていました。一方でそのエネルギーは、他者や同僚、論敵への厳しい言葉にも現れました。「国会での証人喚問」「論戦」「農民戦争」「ユダヤ人」への言葉は、脚注を付けなければ今日、述べることは困難です。しかし、宗教改革の端緒となった「95か条の提題」という文章は「信仰者の生き方は、悔い改めで始まる」という文章となっています。ルターにとって、改革運動は自分の働き、生活の一つでした。しかし神さまとの向かい合う時間においては、まず「悔い改め」の大切さを語ります。


⑥ 日々を振り返ると、私たちもまた多くの過ちを覚えます。しかしその中でなお、神の憐れみに立ち返る道が開かれています。主イエスと共に歩むとは、自分を義とせず、憐れみに生かされる生き方です。一週間、私たちもまた、徴税人のように静かに胸に手をあて、「神さま、罪人の私を憐れんでください」との祈りから歩みたいと思います。



2025年10月21日火曜日

10/18柳井、10/19防府はっさく、10/21徳山ジャガイモ

 

10/21(火)ジャガイモが芽を出しています。

欠いた芽を植えたところに出来た小芋を、おそらく収穫し忘れていたのでしょう。

じゃがいも…?と思っていた芽を、GOOGLE先生が教えてくれました。

でもAI。掘ってみるまで分かりません。

10/19(日)防府の牧師館横に生えているハッサク。

大きくなって欲しいものです。こちらも。

10/19(日)防府の礼拝堂。

少人数ながらも、今日も礼拝が行われました。

10/18(土)柳井の礼拝堂。

11月には召天者記念礼拝、記念会、子ども祝福礼拝が行われます。


今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。


10/22 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

10/25 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

10/26 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝 

10/29 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

11/1 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

11/2 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝 

10/19(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 

聖霊降臨後第19主日 説教 

ルカ福音書181-8節 「必ず応えて下さる神」

水原一郎

ルカ福音書181節からの「やもめと裁判官」のたとえです。これは「諦めない信仰/心を持つ話」とは受け止められません。限界がある「私の心」の在り方に重きが置かれ、結論は見えるからです。主イエスはこのたとえを語った意図は明らかです。1節にこうあります。「絶えず祈り、失望してはならないことを教えるため」と。これは、皆さんの心には、向かい合う対象としての、神さまがおられるという話なのです。


 このたとえに登場する「やもめ」は、当時の社会の中で、最も弱い立場にある者のしるしでした。律法では、「やもめ」は特別に保護されていました。出エジプト記2221節には、「寡婦を苦しめてはならない」、さらに22節「もし彼女が叫べば、わたしは必ずその叫びを聞く」と、神さまの正義は、「弱い立場の声に耳を傾ける」ことを示します。それにもかかわらず、たとえに登場する裁判官は、「神を恐れず、人を人とも思わない者」(4節)と描かれています。律法を無視し、訴えに耳を貸そうとしない。ここに、制度や権威が、声なき者を踏みにじる現実が描き出されています。


 この裁判官の姿は、単なる比喩ではなく、現代にも通じる警告です。制度はあっても、助けを求める人に届かない。本来「正義を司る」はずの者が、私利私欲や無関心に流されて、弱者の訴えを黙殺する。強さや権力、資金に頼り、弱さには目を持向けることはない。そのような形は、今日の社会にも、似たような構造が存在します。ルカ福音書は、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官を通して、「神のかたち」に造られた隣人を見ようとしない人間の罪を暴き出します。


 やもめは、何度も訴え続けました。すると、このやる気のない裁判官は、ついには法廷を開くに至ります。理由は正義でも律法でもありません。「このやもめがうるさくてかなわないから」です(5節)。この展開は、たとえ話の皮肉な転換となります。正義のゆえではないにもかかわらず、願いは聞かれた。まして、神さまは正義そのものであられる。だから、選ばれた者たちの叫びを聞き流されることは、あり得ないのです。主は「神は選ばれた者のために、速やかに正義を行って下さる」と語られます(7節)。ここでいう「すみやかに」とは、「人間の時間感覚で即座に」ではありません。「神さまは、必要な時に遅れることなく、答えられる」という意味です。確かに、神の応答は、私たちの期待より遅いこともあります。しかし、決して遅すぎることはないのです。


 たとえの終わりと、主イエスご自身の結論とは異なります。たとえは「やもめのしつこさ」によって裁判官が動かされた、という形で終わりますが、主イエスはそこから一歩踏み出し、「まして神は」と語られました。主の関心は、私たちの熱心さではなく、神の誠実さにあります。祈りの答えがいつ与えられるか、それは神の時に委ねられています。だからこそ、見える結果に左右されず、祈りを手放さない心が求められるのです。主イエスは最後に問いかけられました──「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」(8節)。この問いは、すべての時代の信仰者に向けられています。神が正義を行ってくださるという約束を信じ、祈りを保ちつつ、信仰に生きる者でありたいと願います。

 


2025年10月14日火曜日

10/8六日市の柿、10/11柳井の栗、10/12徳山、10/13瑞風(みずかぜ)、るうてる秋の大会

 

 11/3(月、祝)、「るうてる秋の大会」が行われます。
 年に一度の地区の合同礼拝。
 楽しみです。
 10/13(月)防府駅に豪華列車「瑞風(みずかぜ)」が停車しました。

 京都から山陽を経て下関に向かうルートとか。

 一泊二日の行程を見て、その行程のゆったりさに ぜいたくを感じました。

 おっと、料金も…。行程も料金も、今の段階では手が出ません。

 10/12(日)その前日、防府礼拝所。

 残暑はまだまだ続きます。扇風機が離せません。

 10/12(日)徳山礼拝所。

 朝日が礼拝堂に入るこの瞬間が好きです。

 10/11(土)柳井礼拝所の方から頂いた栗。

 10/13(月)の夜、栗ご飯にして頂きました。

 10/8(水)こちらは六日市礼拝所。

 オレンジ色は柿、その麓には秋桜、こちらでも、教会員から大ぶりの栗と

 ミョウガを頂きました。誰がなんといっても秋、しかし残暑はいまだ続きます。

 こちらの栗は、現在水漬け中。冷凍して鬼、渋を抜くのです。


今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。


10/15 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 家庭礼拝となりました。

10/18 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

10/19 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝 

10/22 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

10/25 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

10/26 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝 

10/12(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 


聖霊降臨後第18主日 説教 

ルカ福音書1711-18節 「ありがとう、は花言葉」

水原一郎

 本日の福音書では、主イエスが10人の「重い皮膚病」を患う人々に出会います。そのうちの1人、サマリア人が主のもとに「戻って来」て、神を賛美し、主イエスに感謝したことが語られています。この物語は、「感謝」に目が行きます。主イエスは「感謝」と共に、癒しの事柄を通した「神さまへの賛美」を大切なこととして見ています。


 舞台は「サマリアとガリラヤの間」、宗教的にも民族的にも緊張する境界地域でした(17:11)。その道中、ある村に入られた主イエスに向かって、10人の重い皮膚病の人々が声を上げます。「イエスさま、先生、どうか私たちを憐れんで下さい」と(17:13)。レビ記1346節によれば、こうした病を患った方は、「宿営の外」に隔離され、人との接触を断ち、しかも自ら「汚れている」と告げねばなりませんでした。彼らが「村の中」にいたというのは、そうした背景を考える時、不思議な表現です。ここが「境界地帯」つまりそれぞれの地域から離れている「隔離村」だったのでしょう。


 主は「行って、祭司に体を見せなさい」と命じられました(17:14)。これは、レビ記14章に定められた、癒し後の社会復帰の手続きです。主は、彼らの願い――癒されること、そして共同体に復帰すること――を知っておられました。彼らは主の言葉に従い、行動しました。そしてその途中で、癒しが起こったのです。彼らは皆、自分たちが癒されたことを知りました。そして「社会復帰」のため、故郷に帰るものもいたのです。


 ところが、癒された10人のうち、1人だけは主のもとに戻りました。それも、ユダヤ人とは元来は関係を保とうとはしないサマリア人でした(17:16)。彼は大声で神を賛美します。そして主の足もとにひれ伏し感謝を捧げます。主はその姿をご覧になり、問いかけられます。「感謝」の言葉を受け止められたのは確かですが、主の注目は「この外国人の他に、神を賛美するために戻ったものはいないのか」(17:18)でした。


 主イエスは「感謝」に現れる「神さまと向き直る姿勢」を問われます。そもそも主は「祭司に体を見せなさい(17:14)」と、すぐに社会復帰の儀式の手順を始めることを促しました。10人がそれぞれの故郷に戻り、失われた日々を取り戻して欲しかったのです。もともと「感謝を受ける」また「感謝を伝える」ことは主の思いの外でした。戻らなかった9人は、故郷の村で儀式に預かります。儀式を通し、神さまに感謝はしたことでしょう。そこには、自分の生活を取り戻すという熱意があり、主イエスもまたそれを願っていたのです。「神さまの眼差しに包まれ、自由に生きる」のです。しかし戻った一人は、まず「神を賛美した」のです。「眼差しを注ぐ神さまに向き直る」のです。


 「困った時の神頼み」は、大事なことです。私たちは、神さまからの恵みを受けることは熱心です。恵みが足りないと感じるときは祈り、願い求めます。けれども、その恵みの背後におられるお方――主なる神ご自身に立ち返るということを、私たちは、事柄が過ぎた後には忘れてしまいます。「十中八九」忘れます。ちょうど今日の聖書のように。しかし今日、改めて「神さまに向き直って生きる」ことを覚えたいのです。


 今週、私たちが迎える日々にも、主は近づいてくださいます。その主の働きに気づき、恵みを受けたとき、「感謝」とともに神さまに立ち返る歩みをしたいのです。