息をのむほどきれいだったので撮りました。
ティンダル現象(チンダル現象)、光の筋が見える一瞬でした。
10/25(土)柳井でも礼拝が行われました。
写真は10/18(土)散歩中に撮った写真。
「いちごの花」と呼んでいました(誰が?)。
教会員のお宅の甘がきを撮らせていただき、採らせて頂きました。
甘さ控えめで、果実としても、酢の物(柿なます)としても頂きました。
 今週以降の行事は、以下のとおりです。
いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。
10/29 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝
11/1 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
11/5 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝
11/8 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
11/9 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び
10時45分 徳山チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
10/26(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。
宗教改革主日 説教 
ルカ福音書18章9節-14節 「今あるは、ただ神の恵み」
水原一郎
① ルカ福音書18章9~14節の日課が与えられています。本日は「宗教改革主日」です。今日の福音書には、神殿で祈る二人の人の姿が描かれています。ファリサイ人と徴税人。どちらも祈りを捧げています。しかしその祈りの中身と姿勢は正反対です。このたとえを通して、主イエスは何を示そうとされたのでしょうか。そして、それはルターが宗教改革を始めるに至った出来事と、どのように響き合うのでしょうか。
② 主イエスは「自分を正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」にこの話を語られました。確かに私たちも、社会の中で自分の正しさを探り、確かめながら生きています。しかしその歩みの中で、知らず知らずのうちに「うぬぼれ」や「見下し」が生まれてはいないでしょうか。ファリサイ人の祈りは、一見すると感謝の祈りですが、実際には自分の功績を並べた自己賛美でした。「この徴税人のようでなくて良かった」と他を見下し、祈っているようで神を見上げてはいません。主イエスは「この人は義とされなかった」と語られます。
③ 対照的に、徴税人は目を天に向けることすらせず、胸を打ちながら祈ります。「神さま、罪人の私を憐れんでください」。彼は自分の「結果」を、これまでを見つめます。過ちの多さを言い訳しないで、ただ神の憐れみにすがって祈ります。徴税人とは、当時、ローマ帝国の手先として民から税を取り立てていました。取り立てる金額は徴税人に任されていたことから、不正の温床ともされていた存在でした。主イエスは、この徴税人の「祈り」「神さまのみ前に悔い改める祈り」を通して「義とされる」と言われます。
④ 「たとえ話」の登場人物の背景や設定を推測します。ファリサイ派も徴税人も、他者との関わりに生きる職業です。ファリサイ派は他者の律法にそぐわない行動を指摘し、場合によっては罪を宣告します。徴税人は他者の家に立ち入り、規定の税金やその他を奪い取るものです。いずれも二人の歩みの一部の「切り取り」にすぎません。が、決して楽ではない職業と察します。なぜならいずれも、関わる中での激しい抵抗を感じられるからです。両者とも、普段はその職務を粛々と行うものです。そして神の前で、ファリサイ派は自身の罪に気づかず、さらに徴税人を陥れる罪を重ねます。一方で徴税人は、自分の過ちを反省し、ただ神さまの憐れみを求めるものなのです。
⑤ 本日は宗教改革主日です。この事業を成し遂げたルターは、事柄を行うだけのエネルギーに満ちていました。一方でそのエネルギーは、他者や同僚、論敵への厳しい言葉にも現れました。「国会での証人喚問」「論戦」「農民戦争」「ユダヤ人」への言葉は、脚注を付けなければ今日、述べることは困難です。しかし、宗教改革の端緒となった「95か条の提題」という文章は「信仰者の生き方は、悔い改めで始まる」という文章となっています。ルターにとって、改革運動は自分の働き、生活の一つでした。しかし神さまとの向かい合う時間においては、まず「悔い改め」の大切さを語ります。
⑥ 日々を振り返ると、私たちもまた多くの過ちを覚えます。しかしその中でなお、神の憐れみに立ち返る道が開かれています。主イエスと共に歩むとは、自分を義とせず、憐れみに生かされる生き方です。一週間、私たちもまた、徴税人のように静かに胸に手をあて、「神さま、罪人の私を憐れんでください」との祈りから歩みたいと思います。





 



.png)





















