2025年8月13日水曜日

8/9.10 柳井、防府、徳山

 

 8/10(日) たどり着くのが困難なほど、山口県では豪雨となっていました。

 防府の礼拝は、短い形で守り皆さまの帰宅を見送りました。


 8/5(火)召天された教会員を覚え、毎年ご友人の方がお花をくださいます。

 8/10(日)徳山の教会員が召天をし、ご葬儀が8/11.12と行われました。

 ご家族に天来の慰めを覚え、祈ります。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

8/13 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 家庭礼拝となります。

8/16 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

8/17 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 8

8/20 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

8/21 木曜日 牧師 広島出張

8/23 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

8/24 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

        15時 防府チャペル礼拝 

8/10(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。

聖霊降臨後第9主日 説教 

ルカ福音書12章32節-34節 「小さな群れに寄り添う神」

水原一郎

 本日はルカ福音書123234節の御言葉から、「恐れの中で生きる私たちに寄り添う神の養い」についてご一緒に味わってまいりましょう。冒頭の「小さな群れよ、恐れるな」という言葉――皆さんはどう聞かれるでしょうか。正直に言えば、恐れることはたくさんあります。健康のこと、家族のこと、将来の生活、経済的な備え、人間関係の行き詰まり。弟子たちもまた、不安のただ中にいました。


 今日の言葉の前には「財産の相続」に関するやりとりがあります(12:1315)。ある人が主イエスに「兄弟に、遺産を分けるよう言ってください」と訴えます。申命記の律法では権利は守られていましたが、この人は「少しでも多く欲しい」と思ったのでしょう。しかし主イエスは介入せず、「あらゆる貪欲に気をつけなさい」と警告されました。そして「富を積んでも命の長さは変わらない」というたとえを語られ、「野の花」「空の鳥」のように、神の養いを信じて生きる道を示されます。ここには、「得ることに執着する生き方」から、「神の備えに喜ぶ生き方」への招きがあります。


 「神さまの備え」とはどういうことでしょうか。32節で主イエスはこう宣言されます。「あなたがたの父は、喜んで神の国をくださる」。二つのことが、言えます。一つ目、ここで使われている「喜んで(ギリシャ語 eudokeō)」は、「心から望み、進んでそうする」という意味です。神はいやいや与えるのではなく、喜びをもって、積極的にあなたに備えてくださるこれが一つ目です。二つ目。神の国とは単に死後の天国のことではありません。神の支配と導きが、いまこの地上であなたの歩みに及んでいる状態です。つまり「あなたに必要なものを、神は喜びをもって、今から与えられる」という約束です。


  3334節では「持ち物を売り、施し、天に富を積め」と命じられます。弟子たちはきっと思ったでしょう――「全てを捨ててきたのに」「そんなに簡単に手放せるだろうか」。また「このような無一物の教えが受け入れられるだろうか」と。しかし主イエスは、ここでは「関わり」を言われます。「神が備えてくださるから」何もしなくていい、ということではありません。むしろ、自分の持ち物を他者に捧げ、他者の賜物を頂くという関わりです。「売り」「施す」という言葉から、金銭や物質に限定されがちですが、主イエスは「人と人との深い関わり」を語るものなのです。


 新しい職場、初めての学校、慣れない場所、病院や施設私たちは知らない場所に行くとき、不安を覚えます。しかし、そこに自分を心から歓迎してくれる人がいると分かれば、安心できます。私たちの人生のこれからの道も同じです。先が見えないとき、不安はつきものです。けれども、その先で待っているのは、あなたを歓迎し、喜びをもって必要を備える神です。


⑥ 「宝を天に積む生き方」というものは、どのようなものでしょうか? 私たちの日々は、「何が人に喜ばれるか」を中心に置いたものと言えます。「何が神に喜ばれるか」を加えることは出来るでしょうか? 頂いているものを、神さまにお返しをする生を覚えたいと思います。


2025年7月27日日曜日

7/23.7/27 六日市と徳山

 

 7/27(日)朝の徳山の礼拝所です。

 この日は朝5時くらいから、近隣の中学校、吹奏学部が「朝練」をしていました。

 「マードックからの最後の手紙」を堪能できました。


 7/23(水)六日市礼拝後に撮った一枚です。

 季節は大夏です。柿はまだ青く、小春日和を勘違いしたコスモスが咲いていました。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

7/30 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 家庭礼拝となります。

8/2 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

8/3 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 8

8/6 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

8/9 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

8/10 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

        15時 防府チャペル礼拝 

7/27(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。

聖霊降臨後第7主日 説教 

ルカ福音書11章1節-4節 「祈りを教えて下さい。」

水原一郎

①  ある日、イエスさまは静かに祈っていました。その姿をじっと見つめていた弟子が、思わず声をかけます。「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」この言葉に、私は心を打たれます。弟子たちは、祈ることが何であるか、どう祈ればよいのか、確信がなかったのでしょう。祈りに、不安を感じていたのです。


② 祈りとは、本来自然にあふれてくるものだ。私たちは、そう思うかもしれません。けれど弟子たちは気づいていたのです。「自然にあふれ出る祈りの中身は、自分たちのことばかり」と。自分たちの祈りには、隣人への配慮、愛が足りない、のかもしれないと。だからこそ、彼らは願いました。「主よ、祈りを、教えてください」と。イエスさまは、その願いに応えられました。このことが教えているのは、祈りとは、自分でつくるものであると同時に、神から“教えられる”ものだということです。


③ 主が弟子たちに与えた祈り――それが、私たちが今も共に祈っている「主の祈り」です。「父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように…」この祈りの始まりは、私たちの願いではなく、神さまへの賛美です。「こうなりますように」「あれが叶いますように」――そう願うこと自体が悪いわけではありません。けれど主の祈りは、まず神さまを見上げるところから始まるのです。


④ 最初に祈られるのは、「御名が崇められますように」。それはこういう意味です。「神さまの名が、この世界の人々の心の中で、大切にされますように」。けれど現実にはそう感じられないこともあります。戦争や飢え。争いや自然災害。神さまの名が軽んじられているかのように見える現実があります。でも、私たちは祈るのです。この世界のただなかに、神のご支配が、平和と正義と憐れみが、訪れますように――と。「御国が来ますように」も同じ祈りです。神さまの望まれる世界が、遠い天上ではなく、この地上にもたらされますように。その世界の一員である私にも、あなたにも、その恵みが届きますように。そのあとに、こう続きます。「私たちの日ごとの糧をお与えください」「私たちの罪をお赦しください」神さまは、私たちの必要にも、しっかり耳を傾けてくださる方です。私たちが生きる日々の、重さも、傷も、願いも、神さまはご存知です。


⑤ そしてこの祈りは、すべてが「私」ではなく「私たち」として祈られています。「私たちの日ごとの糧」「私たちの罪」。それは、祈りが共同の祈りだからです。信仰は、決してひとりきりのものではありません。自分のためだけでなく、隣人のために。召された人のために。この教会に集う人のために。名前も知らない誰かのために。祈りとは、神さまの前で私たちが、隣人との関わりをつなぎ直す営みなのです。


⑥ ときには、詩編のように、心の叫びを神さまにぶつける祈りもあります。怒り、不安、戸惑い、嘆き――自分の思いで祈ることも大切です。主の祈りは、そんな私たちの心を、そっと整えてくれます。神さまを崇めること。隣人を思い出すこと。自分の罪を思い起こし、悔い改めること。すべてが、この短い祈りの中に込められています。祈りとは、神に向かって心をひらくこと。そして、隣人に向かって心をひらくことです。主が私たちに与えてくださったこの祈りを、これからも共に祈りながら、日々を過ごしましょう。







2025年7月22日火曜日

7/19.20 柳井、徳山、防府

 

 7/22(火)先ほど撮った、徳山礼拝所となります。

 朝の光が礼拝堂に入り込んでいます。やや蒸しています。

 7/20(日)防府礼拝所。午後の礼拝堂で、西日は強烈に聖壇に降ってきます。
 7/19(土)柳井礼拝所。こちらも午後礼拝。

 これからしばらく、夏の暑さとの闘いの日々です。


今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

7/23 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝

7/26 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

7/27 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

7/30 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

8/2 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

8/3 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

        15時 防府チャペル礼拝 

7/20(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。

聖霊降臨後第6主日 説教 

ルカ福音書1038-42節 「語るに遅く、聞くに早く」

水原一郎

   本日は、ルカ福音書1038節からのみ言葉をご一緒に味わいましょう。皆さんは、この「マルタとマリア」の場面を読むと、どちらに自分を重ねますか?落ち着いてイエス様の話を聞くマリアか。忙しなく働き続けるマルタか。当時、女性がこうした場に座って学ぶことは、簡単ではありませんでした。それでもマリアは、自分の身分や立場を超えて、ただまっすぐに主の言葉を求めたのです。



   マリアが、なぜそこまでしてみ言葉を聞こうとしていたのか? その理由や背景は、聖書には書かれていません。一方で、マルタの行動には、具体的な背景が見えてきます。今日の箇所は、ルカ福音書10章の流れにあります。10章冒頭では、主イエスが72人の弟子を任命して、町々に派遣されます。その弟子たちが戻ってきて、喜びの報告をする。直後に、「善きサマリア人」のたとえ話が語られます。そして今日の場面、「一行がある村に入った」と続くのです。


   そこに「一行」のヒントがあります。 主イエスと12人の弟子たち? 72人? いずれにせよ、10人以上の客が急にやって来たら、皆さんどうしますか?マルタは、それを一人で迎えたのです。飲み物に食事、部屋の準備。やることは山ほどあります。しかも、集まっているのは、30歳前後の男性たち。よく食べ、よく話す、元気な人々です。


   マルタは、自ら主イエス一行を迎え入れ、もてなしました。ふと気づくのです。「マリアがいない。私ひとりで?」そして主の話し声が聞こえてくる。「なぜ、あの子は聴くことばかり?」心の中で何かが弾けたように、マルタは主に訴えます。「主よ、私の妹が手伝わないのを、なんとも思われませんか?」


   私たちも、そんなふうに感じること、ありますよね? 家族や職場で一生懸命働いているとき。「なんで私ばっかり?」「誰もわかってくれない」と思う瞬間。マルタの「もてなし」は、聖書では「ディアコニア」と記されています。これは、仕える働き、ホコリをかぶるような働きのことです。だからマルタの姿は、「間違い」ではありません。むしろ、善きサマリア人のように、み言葉を「行い」で表現していたとも言えるのです。しかし問題は、その働き事態が目的となり、主との交わり、御言葉が見えなくなっていた――そこに、主は目を留められたのです。


    主は、そんなマルタにこう言われました。「マルタ、マルタ」と。これは叱っているのではなく、優しく呼びかけておられるのです。旧約聖書でも、「アブラハム、アブラハム」「サムエル、サムエル」と、神は大切な場面で、名を二度呼ばれます。主は、マルタのすべてを見ておられました。



   ここに、マリアの姿勢が大切なのです。主の足もとに座り、御言葉を受け取ること。そこに、正しい順序があります。み言葉に整えられてこそ、真のディアコニアは生まれるのです。私たちもまた、日々の忙しさの中で、まず主の言葉にとどまり、心を静める時間を大切にしましょう。その中から、人を生かす働きが生まれるのです。




2025年7月17日木曜日

7/11.12.13.14.16 会員召天、柳井、徳山、防府、そして「はちみつ太郎」

 

 7/16(水)の礼拝で、六日市の会員の方からいただいた銘菓「はちみつ太郎」

 どこかの「やめられないとまらない」が裾野に位置するように見える、絶品です。

 途中の道で開封の欲望に駆られましたが、駆るのは車だけにしておきました。

 7/16(水)会員を吉賀町に訪問しました。

 近隣の方なら、ここがどこの交差点か一目でわかるでしょう。

 ヒント、右中央。

 7/13(日)防府礼拝所の献花。

 花の鮮やかさとうらはらに、落ち着いた礼拝でした。

 7/13(日)徳山礼拝所の朝。7/11(金)にご召天になった方も、

 この日は一緒に主日礼拝に出席されました。

 ご召天者を囲む「夕べの祈り」は、7/12(土)19時、7/13(日)17時

 前夜式は7/13(日)18時半、告別式は7/14(月)11時に行われました。

 ご家族に天来の慰めを祈ります。

 7/12(土)柳井礼拝所。

 こちらにも、会員関係者の病床の知らせを受け、祈りました。

 7/10(木)防府礼拝所の玄関の梅。

 バリカンで刈りました。ついでに7/16(水)牧師の頭もバリカンで刈りました。

 刈ったり駆ったり、忙しい一週間でした。

 今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

7/16 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝

7/19 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

7/20 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

7/23 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

7/26 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

7/27 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

        15時 防府チャペル礼拝 

7/13(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。

聖霊降臨後第5主日 説教 

ルカ福音書1025-37節 「全部はできないけれど」

水原一郎

 本日は、ルカによる福音書10章の「善いサマリア人」のたとえを通して、「隣人になる」とはどういうことか、主イエスの問いに耳を傾けたいと思います。単なる善行の勧めではありません。主は、人間の限界の中でどのように隣人に仕えるのかという、深い問いかけを私たちに投げかけておられます。


 このたとえは、一人の律法の専門家の問いかけから始まります。「永遠の命を得るには何をすべきか。」彼の問いには、律法を熟知した者の誇りがにじんでいます。けれども主イエスは、律法そのものではなく、その律法が求める「神への愛」「隣人への愛」を実際に行うように促されました。そして、さらにもう一つの問い、「わたしの隣人とは誰ですか?」に対して、主は一つのたとえを語り始めます。


エルサレムからエリコへ向かう危険な旅路。そこに横たわる傷ついた者は、名も立場も記されない「ある人」です。彼のもとを通りかかった祭司とレビ人は、彼を見て道の向こう側を通り過ぎました。宗教的務めを担う者でした。ただ彼らは、目の前の苦しむ者に目を向けず、すり抜けていったのです。彼らは律法の純潔性を守ることと、隣人への憐れみとの狭間で、自分を守る方を選びました。イエスは、そうした律法の自己保身的な運用に警鐘を鳴らしておられるのです。


 ところが、ユダヤ人から蔑まれていたサマリア人が近づき、傷ついた人を憐れに思い、自ら手当を施し、宿屋に連れて行きます。彼は銀貨二枚を宿屋の主人に渡し、「必要なら、帰りに支払う」と約束します。ここで注目したいのは、彼がすべてを一人で抱え込もうとしなかったという点です。彼は、その場で自分にできることを全力で行いました。しかし同時に、自分には手が届かない部分を、宿屋の主人、他者に託しました。そこにあるのは「手放す愛」です。無責任な放棄ではなく、人間の限界を知ったうえで、それでも愛し続けるための、勇気ある委ねです。


 もう一つの存在──ロバ。傷ついた者を背に乗せ、運んだこの動物も、無言のまま、苦しみを担い、重荷を背負いました。 私たちもまた、ロバのように「隣人としての役割」を与えられることがあります。常にサマリア人のように主役になるとは限りません。しかし、「委ねられた思いを受け取り、つなぐ者」「無言で支える者」として生きることも、神の働きに与ることなのです。完全な愛を持つことは、私たちにはできないかもしれません。けれども、今、目の前の誰かに向き合うこと、憐れみを持つこと、そして必要に応じて他者に託すこと──そのすべてが「隣人になる」道のりです。


 主イエスもまた、地上に来られ、人々に寄り添い、傷を負い、救いのためにすべてをささげ、そしてなお、後を弟子たちや私たちに託しておられるのです。 「行って、あなたも同じようにしなさい。」この御言葉に応えて、完全ではなくても誠実に、いま出会うひとりに向き合う歩みを、主と共に始めてまいりましょう。

 




2025年7月8日火曜日

7/1.2.5.6 病床洗礼式、六日市、柳井、徳山、防府

 

7/1(火)、病床洗礼式が、周南市の徳山中央病院、「救急・救命室」で行われました。

ご夫君は治療中です。ご夫君、ご伴侶ともども受洗されました。

祈りながら日々を送る方々に、また医師・看護師・病院関係者に、癒しを祈ります。

写真は7/8(火)徳山礼拝所の朝です。


7/6(日)防府礼拝所。午後の礼拝堂は、そこにいるだけで汗が…。
7/5(土)六日市礼拝所の方から頂いた「ノンアルコールビール」です。

切干を頂きながら。体にすっとしみこむ炭酸のおいしさです。


7/5(土)柳井礼拝所。こちらも午後礼拝です。

防府、柳井とも、教会員が冷房を入れてくださっています。

7/2(水)六日市礼拝所。今日は聖餐式が行われました。

写真は簡易聖餐・洗礼用具。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

7/9 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝

7/12 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

7/13 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

7/16 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

7/19 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

7/20 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

        15時 防府チャペル礼拝 

7/6(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。

聖霊降臨後第4主日 説教 

ルカ福音書101-4.16-20節 「大丈夫、戻れます」

水原一郎

 本日は、聖霊降臨後第4主日です。主イエスが72人の弟子を2人ずつ遣わし、神の国の福音を伝えさせた場面を読みました。繰り返される「神の国は近づいた」という言葉を通して私たちは、主が今もご自身の働き人を必要としておられ、私たちを用いるということを受けとめます。


   主イエスは弟子たちにこう語られました。「収穫は多いが、働き手が少ない」。ちょうど今、日本の各地では稲が力強く伸び、あと二~三か月もすれば実りの時を迎えます。しかしその現場では、「田んぼの後継ぎがいない」「働きに見合わない」といった声が深刻さを増しています。このような現実と重なるように、主イエスもまた、「収穫が多く、働き手がいない」という事態に対して、深い憐れみと切実さをもって語られたのです。ただし、主が言われる「収穫」とは、稲や作物のことではありません。それは「神の国の知らせを待っている人々」のことです。見過ごされている命、迷い悩む人々、そしてその人々に差し出されるべき福音の手。そうした魂に神の優しさを伝える働き人が足りない。それが主の痛みであり、今も変わらぬ現実なのです。


    72人という人数は、創世記10章に記される「ノアの子孫」、すなわち全世界の諸民族の象徴と解釈されてきました。つまり、主の福音はユダヤにとどまらず、すべての人に開かれていることのしるしとして、この派遣がなされているのです。主は私たちを、現代の町や村、学校、職場、家庭に遣わしておられます。神の国の福音は、今もあらゆる場所に向けて広がっていくよう、主ご自身が導いておられるのです。


 しかしその道は、決してやさしいものではありません。主は「わたしはあなたがたを、狼の群れに子羊を送るようにして遣わす」と言われました。これは厳しい現実の警告です。外からの敵意や困難(狼)、内なる弱さや怯え(子羊)を、主はご存じなのです。弟子たちは、自分の力や善意でこの務めを果たすのではありません。主が遣わし、主が共にいてくださるからこそ、その使命を担えるのです。それゆえ、主は「財布も袋も履物も持つな」と言われました。頼るべきものは、神の備えと導きにあるからです。


 そして、弟子たちは旅路を終えて主のもとに帰ってきました。彼らは喜びに満ちて報告します。「主よ、あなたの名を使うと、悪霊さえ服従しました」と。しかし、主はその興奮に冷静に応じられます――「悪霊が従うことを喜ぶのではなく、あなたがたの名が天に記されていることを喜びなさい」と。これは、結果主義に陥るなという主の戒めです。伝道に成功したから価値があるのではなく、一人の魂が回復し、その魂が前向きな心持となったことに価値がある。それが喜びの根拠であると、主は言われたのです。


    この主日、主はあらためて私たちに言われます。「行きなさい。わたしがあなたを遣わす」と。皆さんが誰かに向ける、たとえ小さな一言でも、祈りでも、助けの手でも、それは主の働きの一部です。それが「神の国は近づいた」という言葉に結び付きます。たとえ小さな働きでも、それを通して神の国は進むのです。主の平和が、あなたの歩みと共にありますように。

 






2025年6月29日日曜日

6/28.29 宇部、厚狭、下関(地区の講壇交換)

 6/28(土)は、西教区、西中国地区の講壇交換でした。

 山口県にあるルーテル教会は6つ。そのうち、柳井、徳山、防府を

 西川晶子牧師が担当し、私は宇部、厚狭、下関の担当をしました。

 上記は宇部教会。昼には、「ひさしぶり」と言われるうどんを頂きました。

 上の写真は厚狭教会。この日の礼拝では「3人のきょうこ さん」が集いました。

 こちらでは礼拝後、きょうこさんのうちのお一人が造られた「スコーン」を頂きました。

 上記は下関教会。こちらは礼拝後、「オルガンカフェ」が行われました。

 お残りになられた方々は、教会員お手製のパン、おかずを頂きながら、オルガン、フルートを聞いていました。

 奏楽者のそばには納骨堂もあります。良く聞こえたことでしょう。

 デザートを頂きました。
 6/29(日)この日は、島根県にあるルーテル教会の六日市礼拝所からの知らせがありました。
 そばの広瀬、離れた津和野では昼の NHK の全国ニュースで11時 現在 津和野が35.4°c 錦町広瀬 が34.7°だったそうです。早すぎる梅雨明けの猛暑が気になります。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

7/2 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝

7/5 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

7/6 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

7/9 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

7/12 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

7/13 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

        15時 防府チャペル礼拝 

6/29(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。

聖霊降臨後第3主日 説教 

ルカ福音書9章51節-55節 「主イエスの目の前に」

水原一郎

① 本日の聖書箇所、ルカによる福音書951節からは、主イエスの歩みにおける重要な転換点が記されています。「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」(9:51)。これは、主イエスが十字架に向かう道を、自ら選び取られたことを示しています。ただ神の子としての使命のためではありません。現実を生きる人々に寄り添う、主イエスの深い憐れみの決意があるのです。


② 51節に記される「エルサレムに向かう決意」という言葉。この表現はイザヤ書50章7節の「顔を硬い石のようにする」を思い起こさせます。神に遣わされた者が、嘲られ、打たれ、捨てられてもなお、神に従い続ける姿勢を表す言葉です。イエス・キリストは、まさにそのように、拒絶されることを承知の上で、十字架への道を歩み始められました。そこには、ためらいではなく、愛の意志があります。私たちもまた、人生のある時、「顔を堅くして」歩まねばならない場面に出会います。痛みや犠牲を引き受けてでも進まなければならない時、主のこの決意は私たちにとって慰めとなります。


③ エルサレムへの途中、イエスはサマリア人の村を通ろうとされます。しかしその村は、イエスを受け入れようとしませんでした。ユダヤ人とサマリア人の間には、長い確執と対立の歴史がありました。サマリア人にとって、エルサレムは「敵の信仰の中心地」であり、そこへ向かう旅人を歓迎しないこともあったのです。イエスは、拒まれました。


④ しかし、問題はその後です。弟子たち、ヤコブとヨハネは怒ります。「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」(9:54)。まるで旧約の預言者エリヤのように、神の裁きをもって報いようとしたのです。けれども主イエスは、それをきっぱりと退け、彼らを「戒められた」とあります(9:55)。イエスは、力によって報復する道ではなく、憐れみと忍耐の道を選ばれました。その村を去り、「別の村に行った」という一言の中に、主の福音の姿勢がにじみ出ています。怒りではなく、裁きでもなく、相手の自由を尊重し、福音のために次の地へと進む――これが、キリストの姿です。


⑤ 主イエスの歩みは、敵意に対して火を降らせることではなく、むしろその火を自らに受け止める道でした。サマリア人もまた、神の救いの対象です。そして実際に主イエスは、後に「良いサマリア人」のたとえ(10章)や、「十人の重い皮膚病の人の中で感謝したのはサマリア人だった」(17章)という出来事を通して、明らかにしていきます。


⑥ 私たちもまた、人生の中で「顔を堅くして」進まねばならない時があります。理解されない、拒まれる、あるいは正しさが伝わらない――それでも私たちは、歩みを止めてはならないことを知っています。私たちが生きているのは、現実の世界だからです。私たちの向かう先には、誰かがいるからです。しかしかつて、拒まれながらも、なお歩み続ける主の姿が、この日のみ言葉です。主の後を、私たちも歩む者でありたいと思います。そして、目の前のひとりに、怒りではなく、憐れみをもって接する一週間を歩みましょう。

 





 

2025年6月24日火曜日

6/21.22の教会と益田メロン

 

 6/22(日)防府チャペルの礼拝堂です。不思議な百合です。
 6/21(土)柳井チャペルの礼拝堂。聖霊降臨節が始まりました。

 教会の色は、徳山チャペルも含めて「緑」となります。

 成長を表す色となります。

 6/22(日)徳山の礼拝では、ご入院中の方の闘病を覚えて祈りが捧げられました。

 こちらはメロン。島根県の益田市は、メロンの産地となっています。

 これは六日市礼拝所の方が、わざわざ取り寄せてくださったものです。

 子どもにとっては、教会の「緑」より、こちらの「緑」のほうが喜ばしいでしょう。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

6/25 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝

6/28 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

6/29 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 休会です。

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

       西中国地区講壇交換のため、西川晶子牧師による礼拝です。

7/2 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

7/5 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

7/6 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 休会します。

       10時45分 徳山チャペル礼拝

        15時 防府チャペル礼拝 

6/22(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。

聖霊降臨後第2主日 説教 

ルカ福音書826-31節 「音を上げる時、主は聞かれる」

水原一郎

  本日の聖書箇所は、ルカ福音書826節~31節です。ここに登場するのは、悪霊に取り憑かれた一人の男。その男の「助けを求める声」に応える主イエスの姿が描かれています。私たち自身のうちの「叫び」に主が向き合われることをも覚えます。

                                                                       

  26節、「一行は、ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた」。この一文には、主イエスの意志と目的が込められています。一行の中心には主イエスがおられ、主はユダヤの地を離れ、「荒海を越え(8:23-24)異邦とされるゲラサに向かいました。上陸したのは、賑やかな港町ではなく、人里離れた場所でした。そこにいる「ある男」のためでした。27節、「イエスが上陸されると、悪霊に取り憑かれた男が出てきた」。主は彼に出会うため、その場所を選ばれたのです。

                                                                       

 28節、男は「イエスを見ると」突然、「苦しめないでくれ」と叫びました。ここで大切なのは、この叫びが、男の中にある「助けを求める声」だったことです。彼の本質は、主のもとへ近づこうとしています。しかし、その内にある別の人格悪霊は、主に関わられることを恐れ、拒ませたのです。行動も言葉も、一見ちぐはぐに見えますが、根本には「主への近づき」と「救いを求める切実な叫び」がありました。

                                                                       

 ここで少し、日本の宗教文化にも目を向けてみましょう。仏教には「観世音菩薩(観音様)」という存在があります。観音とは「音を観る方」と書きます。ここで言う音とは、世に生きる人々の苦しみの声、嘆きの声です。それを深く見つめ、聴く存在です。今日の主イエスもまた、人知れず発せられる叫びに耳を傾けるお方として現れます。異邦の地にまで出向き、名も知らぬ男の叫びに応えられるのです。

                                                                       

 この男はもともと、ゲラサ地方の村に住んでいました。人生のどこかで心を病み、病まされ、社会から離れざるを得なくなったのでしょう。失敗、喪失、後悔さまざまな背景が考えられます。29節に「鎖や足かせで監視されていた」とあります。周囲の人々も、彼を放っておけなかった。けれども、拘束して遠回りに見守るしかなかったのです。彼はそれを拒み、鎖を断ち切って墓場へと去ったのです。「自由を求めた」行動であると同時に、「誰も理解してくれない」ゆえの苦しい選択でもありました。

                                                                       

  主は彼に名を尋ねます。「名は何というのか?」。彼は答えます。「レギオン――大勢です」と。男の中には多くの人格、分裂した感情や、心の傷が存在していたのでしょう。その混乱の奥底には、「主に出会いたい」という願いが秘められていました。主はその声を聞き取り、男に近づかれました。たとえ、外側から見れば「かまわないでくれ」という拒絶の言葉であっても、それが心の叫びであると見抜かれたのです。

                                                                      

 癒し物語ではしばしば、「癒された」ことばかりに注目が集まります。しかし、もっと注目すべきは、主が「向こう岸に渡ろう」(8:22)と語られたその意志です。主は「嵐に遭っても」引き返すことなく、ゲラサに向かわれました。たった一人の男の叫びのために。今週、私たちもまた、心の中にある助けを求める声を発してみましょう。その小さな声に、主は必ず耳を傾けてくださいます。