2025年10月27日月曜日

10/22六日市の夕陽と柿、10/26防府、10/18柳井、10/27徳山

10/22(水)六日市礼拝後の夕日。

息をのむほどきれいだったので撮りました。

ティンダル現象(チンダル現象)、光の筋が見える一瞬でした。

10/26(日)防府礼拝所。宗教改革主日の礼拝。
10/25(土)柳井でも礼拝が行われました。

写真は10/18(土)散歩中に撮った写真。

「いちごの花」と呼んでいました(誰が?)。

10/22(水)六日市礼拝所の礼拝前。

教会員のお宅の甘がきを撮らせていただき、採らせて頂きました。

甘さ控えめで、果実としても、酢の物(柿なます)としても頂きました。

10/27(月)徳山礼拝所の朝。こちらは朝日。


 今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。


10/29 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

11/1 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

11/2 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝 

11/5 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

11/8 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

11/9 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝 

10/26(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 


宗教改革主日 説教 

ルカ福音書189-14節 「今あるは、ただ神の恵み」

水原一郎

 ルカ福音書18914節の日課が与えられています。本日は「宗教改革主日」です。今日の福音書には、神殿で祈る二人の人の姿が描かれています。ファリサイ人と徴税人。どちらも祈りを捧げています。しかしその祈りの中身と姿勢は正反対です。このたとえを通して、主イエスは何を示そうとされたのでしょうか。そして、それはルターが宗教改革を始めるに至った出来事と、どのように響き合うのでしょうか。


 主イエスは「自分を正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」にこの話を語られました。確かに私たちも、社会の中で自分の正しさを探り、確かめながら生きています。しかしその歩みの中で、知らず知らずのうちに「うぬぼれ」や「見下し」が生まれてはいないでしょうか。ファリサイ人の祈りは、一見すると感謝の祈りですが、実際には自分の功績を並べた自己賛美でした。「この徴税人のようでなくて良かった」と他を見下し、祈っているようで神を見上げてはいません。主イエスは「この人は義とされなかった」と語られます。


 対照的に、徴税人は目を天に向けることすらせず、胸を打ちながら祈ります。「神さま、罪人の私を憐れんでください」。彼は自分の「結果」を、これまでを見つめます。過ちの多さを言い訳しないで、ただ神の憐れみにすがって祈ります。徴税人とは、当時、ローマ帝国の手先として民から税を取り立てていました。取り立てる金額は徴税人に任されていたことから、不正の温床ともされていた存在でした。主イエスは、この徴税人の「祈り」「神さまのみ前に悔い改める祈り」を通して「義とされる」と言われます。


④ 「たとえ話」の登場人物の背景や設定を推測します。ファリサイ派も徴税人も、他者との関わりに生きる職業です。ファリサイ派は他者の律法にそぐわない行動を指摘し、場合によっては罪を宣告します。徴税人は他者の家に立ち入り、規定の税金やその他を奪い取るものです。いずれも二人の歩みの一部の「切り取り」にすぎません。が、決して楽ではない職業と察します。なぜならいずれも、関わる中での激しい抵抗を感じられるからです。両者とも、普段はその職務を粛々と行うものです。そして神の前で、ファリサイ派は自身の罪に気づかず、さらに徴税人を陥れる罪を重ねます。一方で徴税人は、自分の過ちを反省し、ただ神さまの憐れみを求めるものなのです。


⑤ 本日は宗教改革主日です。この事業を成し遂げたルターは、事柄を行うだけのエネルギーに満ちていました。一方でそのエネルギーは、他者や同僚、論敵への厳しい言葉にも現れました。「国会での証人喚問」「論戦」「農民戦争」「ユダヤ人」への言葉は、脚注を付けなければ今日、述べることは困難です。しかし、宗教改革の端緒となった「95か条の提題」という文章は「信仰者の生き方は、悔い改めで始まる」という文章となっています。ルターにとって、改革運動は自分の働き、生活の一つでした。しかし神さまとの向かい合う時間においては、まず「悔い改め」の大切さを語ります。


⑥ 日々を振り返ると、私たちもまた多くの過ちを覚えます。しかしその中でなお、神の憐れみに立ち返る道が開かれています。主イエスと共に歩むとは、自分を義とせず、憐れみに生かされる生き方です。一週間、私たちもまた、徴税人のように静かに胸に手をあて、「神さま、罪人の私を憐れんでください」との祈りから歩みたいと思います。



2025年10月21日火曜日

10/18柳井、10/19防府はっさく、10/21徳山ジャガイモ

 

10/21(火)ジャガイモが芽を出しています。

欠いた芽を植えたところに出来た小芋を、おそらく収穫し忘れていたのでしょう。

じゃがいも…?と思っていた芽を、GOOGLE先生が教えてくれました。

でもAI。掘ってみるまで分かりません。

10/19(日)防府の牧師館横に生えているハッサク。

大きくなって欲しいものです。こちらも。

10/19(日)防府の礼拝堂。

少人数ながらも、今日も礼拝が行われました。

10/18(土)柳井の礼拝堂。

11月には召天者記念礼拝、記念会、子ども祝福礼拝が行われます。


今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。


10/22 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

10/25 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

10/26 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝 

10/29 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

11/1 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

11/2 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝 

10/19(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 

聖霊降臨後第19主日 説教 

ルカ福音書181-8節 「必ず応えて下さる神」

水原一郎

ルカ福音書181節からの「やもめと裁判官」のたとえです。これは「諦めない信仰/心を持つ話」とは受け止められません。限界がある「私の心」の在り方に重きが置かれ、結論は見えるからです。主イエスはこのたとえを語った意図は明らかです。1節にこうあります。「絶えず祈り、失望してはならないことを教えるため」と。これは、皆さんの心には、向かい合う対象としての、神さまがおられるという話なのです。


 このたとえに登場する「やもめ」は、当時の社会の中で、最も弱い立場にある者のしるしでした。律法では、「やもめ」は特別に保護されていました。出エジプト記2221節には、「寡婦を苦しめてはならない」、さらに22節「もし彼女が叫べば、わたしは必ずその叫びを聞く」と、神さまの正義は、「弱い立場の声に耳を傾ける」ことを示します。それにもかかわらず、たとえに登場する裁判官は、「神を恐れず、人を人とも思わない者」(4節)と描かれています。律法を無視し、訴えに耳を貸そうとしない。ここに、制度や権威が、声なき者を踏みにじる現実が描き出されています。


 この裁判官の姿は、単なる比喩ではなく、現代にも通じる警告です。制度はあっても、助けを求める人に届かない。本来「正義を司る」はずの者が、私利私欲や無関心に流されて、弱者の訴えを黙殺する。強さや権力、資金に頼り、弱さには目を持向けることはない。そのような形は、今日の社会にも、似たような構造が存在します。ルカ福音書は、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官を通して、「神のかたち」に造られた隣人を見ようとしない人間の罪を暴き出します。


 やもめは、何度も訴え続けました。すると、このやる気のない裁判官は、ついには法廷を開くに至ります。理由は正義でも律法でもありません。「このやもめがうるさくてかなわないから」です(5節)。この展開は、たとえ話の皮肉な転換となります。正義のゆえではないにもかかわらず、願いは聞かれた。まして、神さまは正義そのものであられる。だから、選ばれた者たちの叫びを聞き流されることは、あり得ないのです。主は「神は選ばれた者のために、速やかに正義を行って下さる」と語られます(7節)。ここでいう「すみやかに」とは、「人間の時間感覚で即座に」ではありません。「神さまは、必要な時に遅れることなく、答えられる」という意味です。確かに、神の応答は、私たちの期待より遅いこともあります。しかし、決して遅すぎることはないのです。


 たとえの終わりと、主イエスご自身の結論とは異なります。たとえは「やもめのしつこさ」によって裁判官が動かされた、という形で終わりますが、主イエスはそこから一歩踏み出し、「まして神は」と語られました。主の関心は、私たちの熱心さではなく、神の誠実さにあります。祈りの答えがいつ与えられるか、それは神の時に委ねられています。だからこそ、見える結果に左右されず、祈りを手放さない心が求められるのです。主イエスは最後に問いかけられました──「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」(8節)。この問いは、すべての時代の信仰者に向けられています。神が正義を行ってくださるという約束を信じ、祈りを保ちつつ、信仰に生きる者でありたいと願います。

 


2025年10月14日火曜日

10/8六日市の柿、10/11柳井の栗、10/12徳山、10/13瑞風(みずかぜ)、るうてる秋の大会

 

 11/3(月、祝)、「るうてる秋の大会」が行われます。
 年に一度の地区の合同礼拝。
 楽しみです。
 10/13(月)防府駅に豪華列車「瑞風(みずかぜ)」が停車しました。

 京都から山陽を経て下関に向かうルートとか。

 一泊二日の行程を見て、その行程のゆったりさに ぜいたくを感じました。

 おっと、料金も…。行程も料金も、今の段階では手が出ません。

 10/12(日)その前日、防府礼拝所。

 残暑はまだまだ続きます。扇風機が離せません。

 10/12(日)徳山礼拝所。

 朝日が礼拝堂に入るこの瞬間が好きです。

 10/11(土)柳井礼拝所の方から頂いた栗。

 10/13(月)の夜、栗ご飯にして頂きました。

 10/8(水)こちらは六日市礼拝所。

 オレンジ色は柿、その麓には秋桜、こちらでも、教会員から大ぶりの栗と

 ミョウガを頂きました。誰がなんといっても秋、しかし残暑はいまだ続きます。

 こちらの栗は、現在水漬け中。冷凍して鬼、渋を抜くのです。


今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。


10/15 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 家庭礼拝となりました。

10/18 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

10/19 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝 

10/22 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

10/25 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

10/26 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝 

10/12(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 


聖霊降臨後第18主日 説教 

ルカ福音書1711-18節 「ありがとう、は花言葉」

水原一郎

 本日の福音書では、主イエスが10人の「重い皮膚病」を患う人々に出会います。そのうちの1人、サマリア人が主のもとに「戻って来」て、神を賛美し、主イエスに感謝したことが語られています。この物語は、「感謝」に目が行きます。主イエスは「感謝」と共に、癒しの事柄を通した「神さまへの賛美」を大切なこととして見ています。


 舞台は「サマリアとガリラヤの間」、宗教的にも民族的にも緊張する境界地域でした(17:11)。その道中、ある村に入られた主イエスに向かって、10人の重い皮膚病の人々が声を上げます。「イエスさま、先生、どうか私たちを憐れんで下さい」と(17:13)。レビ記1346節によれば、こうした病を患った方は、「宿営の外」に隔離され、人との接触を断ち、しかも自ら「汚れている」と告げねばなりませんでした。彼らが「村の中」にいたというのは、そうした背景を考える時、不思議な表現です。ここが「境界地帯」つまりそれぞれの地域から離れている「隔離村」だったのでしょう。


 主は「行って、祭司に体を見せなさい」と命じられました(17:14)。これは、レビ記14章に定められた、癒し後の社会復帰の手続きです。主は、彼らの願い――癒されること、そして共同体に復帰すること――を知っておられました。彼らは主の言葉に従い、行動しました。そしてその途中で、癒しが起こったのです。彼らは皆、自分たちが癒されたことを知りました。そして「社会復帰」のため、故郷に帰るものもいたのです。


 ところが、癒された10人のうち、1人だけは主のもとに戻りました。それも、ユダヤ人とは元来は関係を保とうとはしないサマリア人でした(17:16)。彼は大声で神を賛美します。そして主の足もとにひれ伏し感謝を捧げます。主はその姿をご覧になり、問いかけられます。「感謝」の言葉を受け止められたのは確かですが、主の注目は「この外国人の他に、神を賛美するために戻ったものはいないのか」(17:18)でした。


 主イエスは「感謝」に現れる「神さまと向き直る姿勢」を問われます。そもそも主は「祭司に体を見せなさい(17:14)」と、すぐに社会復帰の儀式の手順を始めることを促しました。10人がそれぞれの故郷に戻り、失われた日々を取り戻して欲しかったのです。もともと「感謝を受ける」また「感謝を伝える」ことは主の思いの外でした。戻らなかった9人は、故郷の村で儀式に預かります。儀式を通し、神さまに感謝はしたことでしょう。そこには、自分の生活を取り戻すという熱意があり、主イエスもまたそれを願っていたのです。「神さまの眼差しに包まれ、自由に生きる」のです。しかし戻った一人は、まず「神を賛美した」のです。「眼差しを注ぐ神さまに向き直る」のです。


 「困った時の神頼み」は、大事なことです。私たちは、神さまからの恵みを受けることは熱心です。恵みが足りないと感じるときは祈り、願い求めます。けれども、その恵みの背後におられるお方――主なる神ご自身に立ち返るということを、私たちは、事柄が過ぎた後には忘れてしまいます。「十中八九」忘れます。ちょうど今日の聖書のように。しかし今日、改めて「神さまに向き直って生きる」ことを覚えたいのです。


 今週、私たちが迎える日々にも、主は近づいてくださいます。その主の働きに気づき、恵みを受けたとき、「感謝」とともに神さまに立ち返る歩みをしたいのです。




2025年10月7日火曜日

10/1六日市、10/4柳井、10/5防府、10/7徳山

 

10/7(火)徳山礼拝所の朝です。

10/5(日)納骨式が下松で行われましたが、その日の午前中の主日礼拝で、

     手前の小机にお骨が置かれ、共に礼拝に預かりました。


10/5(日)防府礼拝所です。

     二週間前に刈った生垣が、もう伸び始めています。

     残暑での礼拝でした。

10/4(土)柳井礼拝所。捧げられているのは、秋の献花です。


10/1(水)六日市礼拝所の礼拝後。まごうことなき、秋の桜。

いずれの礼拝所においても、礼拝の中で聖餐式が行われました。


今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。


10/8 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

10/11 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

10/12 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝 

10/15 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 (予定)

10/18 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

10/19 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝 

10/5(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。

聖霊降臨後第17主日 説教 

ルカ福音書171-10節 「小さな信仰で十分」

水原一郎

 本日の聖書箇所、ルカ17510節では、14節の「他者をつまずかせるな」という主イエスの教えを基にしたものです。今日の直前、16章では「金持ちとラザロ」が語られていました。豊かな金持ちは、貧しいラザロの存在を知りながらも、何もしませんでした。金持ちは自分の「無関心」に気づかず、陰府で初めて悔やみます。


 17章で、主イエスはこう言われます。「つまずきは避けられない」と。「直前の金持ち」にも、何か、無関心にならざるを得ない事情があったことを思わせます。ラザロの名を知る関心を保ちながらも、何もしないのが金持ち。「何もしない」という罪。一方で私たちが誰か近くの他者に「関心を持ち」、共に生きる以上、そこにも誰かを傷つけてしまうことは起こります。「それをもたらす者は不幸だ」と、イエスは断言されます。


  こういう「つまずき」が私たちの周りに潜んでいます。例えば、好意が受け止められなかったとき、陰口に替わる時があります。その時の一言を聞いた人が「陰でそう言われているのか」と思い、その人の周りから離れる。つまずきです。また、どれほど信仰的に振る舞っていても、他人を見下す態度をとっていたなら、いかがでしょうか。それを見た人が「あの信仰の姿は、形式的なだけだ」と思ってしまうかもしれません。しかし、「何かをしても、しなくても、罪が起こり得る、問われる」ことは、厳しい現実です。


  他にも主イエスは「一日に七度罪を犯されても、悔い改めるなら赦しなさい」と言われました。聞いた弟子たちは、困惑したはずです。「私たちには無理だ」と思ったのでしょう。だから、彼らは願います。「私たちの信仰を増してください」と。これは弟子たちの誠実な祈りでした。「もっと強い信仰があれば、赦せる」「つまずかせないように生きられる」と彼らは思ったのです。しかしイエスは、意外な言葉で答えられます。「からし種一粒ほどの信仰があれば、桑の木に『海に根を張れ』と言えばその通りになる」。つまり、信仰は「量」や「強さ」で語るものではない、というのです。小さな、取るに足らないように思える信仰でも、神への信頼があるなら、それで十分だ。問題は「どれほどの信仰か」ではなく、「神さまを見ているか」という問いなのです。


 続く710節で、主イエスは「僕のたとえ」を語られます。ここでは「神さまを見ているものの態度」「信仰の実」が問われます。畑から帰ってきた僕に、主人は「すぐに食べなさい」とは言わない。僕はまず主人に仕え、その後に自分の食事を取る。それは、それが僕の働きだからです。僕は、「主よ、私はただ言われたことをしただけです」と言うだけです。私たちは主人に、また主イエスに、「僕へのねぎらい」を期待します。けれど主は「主人は僕に頼む。僕は主人に仕える」この関係性を求めているのです。


  謙遜に、柔和に、人を責めず、赦しをもって生きる――それはこの世では弱く見えるかもしれません。しかし、それこそが主イエスの歩まれた道です。主は神の御子でありながら、僕の姿をとり、仕える者となり、十字架にまで従われました。私たちの信仰が小さく思えるときこそ、この方を仰ぎましょう。「しなければならないことをする僕」として、忠実に一週の歩みを始めたいと思います。そして、もしも「つまづき」を与えてしまったならば、そのことを後ろに見ません。悔い改めの中で、日々の働きに生きるのです。主イエスは、そのように日々を生きることを求めておられます。


2025年9月30日火曜日

9/24六日市の虹、9/27柳井、9/28防府、9/30徳山のメダカ

9/24(水)広瀬で降り出した雨は、六日市に着く頃には上がりました。

虹が出たので、路肩に留めて撮影しました。

9/27(土)柳井礼拝所。まだ午後礼拝でのタオルは欠かせません。
9/28(日)防府礼拝所。ケイトウの花。
9/30(火)徳山礼拝所のメダカ鉢に、仲間が加えられました。

鉢の半分には、徳山礼拝所の塔の十字架を映しました。


今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。


10/1 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

10/4 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

10/5 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝 

10/8 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

10/11 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

10/12 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝 

9/28(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。

聖霊降臨後第16主日 説教 

ルカ福音書1619-31節 「今ここで、隣人を見る」

水原一郎

 本日は、「金持ちとラザロ」のたとえです。これは、15章全体のたとえ話や、直前の「不正な管理人」のたとえと深く結びついています。 「富」に代表される神さまからの賜物を、神と隣人のためにどう用いるか、それが問われています。「金に執着する」ファリサイ派が、15章のたとえ話や「不正な管理人」のたとえを「あざ笑った」ことから、主イエスは彼らの心の硬さを指摘するため、ファリサイ派に向け、これを語られました。


 この物語は、二人の人に焦点を当てています。紫の衣に身を包み、毎日を贅沢に過ごす金持ち。対照的に、金持ちの門前に横たわり、皮膚は病み、食物も乏しい貧者ラザロ。「犬だけが」彼の痛みを分かち合うものでした。ラザロという名前は「神が助ける」を意味します。人に見捨てられても、神に望みを置く者を示します。やがて二人は死を迎えます。ラザロはアブラハムの懐に迎えられ、金持ちは陰府で苦しみます。世の中における地位は、神さまのみ前では基準とならないことが示されています。


 大切なことは、金持ちが明確に悪い事をしたとは書かれていない点です。この金持ちはそれでは、なぜ「陰府」に送られたのでしょうか。「見て見ぬふり」をしたことにあります。死後、金持ちはラザロを呼び求めます。「ラザロをよこして、私の舌を冷やさせてください」と。このことから、金持ちは門前のラザロを知っていたことが分かります。しかし「見て見ぬふり」をしていたのです。アブラハムは言います。「生前、あなたは良いものを受け、ラザロは悪いものを受けた。今は彼が慰められ、あなたは苦しむ」。これは賜物を自分のためだけに使い、隣人を無視した生き方に向けられた言葉です。


 金持ちはさらに願います、「せめて兄弟たちに警告を」と。しかしアブラハムは答えます、「律法と預言者がある。聞き従うがよい」と。整理したいと思います。仮に「死者からの警告」があれば、それは直感的には分かりやすいと言えます。背景には、金持ちの兄弟たちは金持ちのように、「賜物」を自分のためだけに用いていたことが考えられます。警告があれば、「賜物」の用いる方向性を「自分ではなく他者に」という思いに至ることでしょう。しかし主イエスは、「今すでに与えられているみ言葉」に従うこと。それが「律法と預言者」に従うこと。その上で、「今目の前にある人々への応答」をと告げているのです。


 このたとえは、他人の行き先を議論するためのものではありません。主イエスはファリサイ派に、「今、与えられたものを誰のために用いているか」と問いかけます。「門前にいるラザロ」に代表される人々に、見て見ぬふりをしていないか。それは私たちにも当てはめることができます。もちろん、私たちの救いは善い行いによって得られるのではありません。ただ、果たして私たちは、与えられた神の憐れみを、隣人に分かち合う生き方を過ごしているでしょうか。その問いを大切に受け止めたいのです。


  金持ちはラザロを見ていたが、真に見ることはありませんでした。私たちはどうでしょうか。見えているのに無関心でいることを覚えたいと思います。賜物は財産だけでなく、時間、言葉、祈りも含まれます。与えられているものを隣人のために用いることを今日、覚えたいと思います。既に行われている私たちの働きを、主がさらに大きく、広げて下さることを信じ、神さまと隣人に忠実に仕えましょう。



 

2025年9月24日水曜日

9/17六日市、9/20柳井、9/21防府

 

 9/21(日)防府礼拝所。午後礼拝ですが、やはり喉元を緩めないと声が出ません。

 それほど蒸し暑い午後です。

 9/20(土)柳井礼拝所。

 この日は確か、雨交じりだったような気が・・・。

 9/17(水)六日市礼拝所。

 秋桜が咲き始めました。涼しいということ、でしょうか。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

防府礼拝所の、礼拝開始時間が長らく間違っていました。訂正いたします。

9/24 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

9/27 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

9/28 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝 

10/1 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

10/4 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

10/5 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝 

9/21日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。

聖霊降臨後第15主日 説教 

ルカ福音書161-13節 「神と隣人のための富」

水原一郎

① ルカ福音書15章で、主イエスは一連のたとえ話を語られました。見失った羊を探す羊飼い、銀貨を探す女、そして放蕩息子を迎える父──いずれの物語も、失われた者を見出し、回復しようとする神の愛を鮮やかに示しています。そこでは、人間の制度や常識を超えて働く、神の深い憐れみが語られていました。


② ところが、それを聞いたファリサイ派の人々は、その意味を受け取ろうとしませんでした。今日の話を受けた箇所では、「金に執着するファリサイ派が、イエスの話を聞いてあざ笑った」と14節に記されています。主が語られた神の愛の真実は、彼らの心には届かなかったのです。今日の箇所では、彼らに違和感を覚えさせた言葉が登場します。「不正にまみれた富で友を作れ」(16:9)主が、不正を奨励しているかのようにすら聞こえるのです。


③ このたとえ話に登場するのは、財産を他人に委ねていた金持ちと、その財産を管理していた使用人(管理人)です。主人は、管理人が財産を浪費しているとの噂を聞き、帳簿の提出を命じて、事実上の解任を通告します。追い詰められた管理人は、主人に借りのある人々の負債を勝手に減額し、将来に備えて恩を売ろうとします。ところが、主人はこの行為を責めるどころか、「この不正な管理人の抜け目のないやり方を褒めた」管理人の将来を見据えた機転に感心します。主イエスは、「この世の子らは、自分の仲間には、光の子らよりも賢い」。人々の処世術の鋭さを見ておられるのです。


④ ここで鍵となるのが「不正にまみれた富」という言葉です。原語に照らして考えると、「不正に得た富」と限定するよりも、「不正と結びつきやすい富」と理解する方が適切です。主は、富そのものを汚れているとは語っておられません。むしろ、富とは人の欲望を刺激しやすく、容易に不正へと傾かせる、危うい力を持つという現実を、主は見ておられるのです。この管理人も、自らの立場が危うくなるなかで、富を自己保身の手段として用いただけでした。主は、将来を見据えた知恵と対応力を見られたのです。


⑤ しかし主イエスは、私たちをさらに深い教えへと導いていかれます。主は言われます。「不正にまみれた富で友を作れ。そうすれば、富がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れられる」。ここで主が語っておられるのは、富を自己目的のために用いるのではなく、他者との関係のために用いるという姿勢です。富が自分のためだけに使われるとき、それは「富に仕える」こととなります。しかし、それが他者に向けて用いられるとき、それは「神に仕える」こととなる。まさにここに、信仰者としての姿勢が問われているのです。この視点から改めてルカ15章を振り返ると、羊を探す羊飼いも、銀貨を探す女も、息子を赦す父も、それぞれ「自らの時間・労力・富」を惜しみなく他者のために差し出しました。


⑥ では、私たちが他者のために差し出す「富」とは、具体的に何を指すのでしょうか。それは金銭に限られません。時間、労力、知恵、そして祈り──それらすべてが、神から私たちに託された賜物です。これらを用いることによって、私たちは他者との真実な交わりを築き、神の御心に仕えることができるのです。主の教えを心に刻み、日々の生活のなかで、それぞれに託された「富」を神と隣人のために用いましょう。



2025年9月16日火曜日

9/10六日市、9/12防府before after、9/13柳井、9/16徳山

 

9/12の朝、新しく購入した生垣バリカンを試すという名目で、

  防府の草刈りに出かけました。 


  裏手の牧師館の生垣。

  裏手の小道。刈り入れの前。

  9/10(水)六日市礼拝所の礼拝前? 

  秋桜はこれからですが、白い花。名前は…?

  9/16(火)徳山礼拝所の朝。
  

  9/13(土)柳井礼拝所の礼拝前。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

防府礼拝所の、礼拝開始時間が長らく間違っていました。訂正いたします。

9/17 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

9/20 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

9/21 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝 

9/24 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

9/27 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

9/28 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝 

9/14(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。

聖霊降臨後第14主日 説教 

ルカ福音書15章1節-10節 「見つけ出される羊と銀貨」

水原一郎

① ルカ福音書15章は、ある種の驚きと共に始まります。「徴税人や罪びとが皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た」。彼らは、当時の社会から忌み嫌われ、見下されていた人々です。彼らがわざわざ主イエスに近づこうとしています。これは、注目すべき光景です。この直前の14章の最後で、主イエスは「塩が塩気を失えば、何の役にも立たず、捨てられてしまう」と語られたばかりだったからです。それほどまでに厳しい言葉を語るお方のもとに、あえて近寄る人々がいたのです。おそらく彼らは、自分こそが「塩気を失った者」、社会の中で自分はもう見「捨てられている」と感じていたのかもしれません。けれど同時に、主イエスの語る「捨てられるもの」の中に、自らの姿を重ね合わせ、その方がどんな言葉を語られるのかに、望みを抱いていたのでしょう。


② その彼らに向かって、主イエスは三つのたとえを語ります。「見失った羊」「なくした銀貨」「放蕩息子」のたとえです。三つに共通しているのは、たとえ一つでも失われたものがあれば、それを放っておかないという姿勢です。見つけるまで探し、見つけたときには喜ぶのです。けれども、これらのたとえは私たちに違和感も与えます。

·     「たった一匹のために、九十九匹を荒れ野に置いていくのは危険では?」

·     「九枚あるなら、それで十分では?」

·     「あのような放蕩息子を許す父親は、現実にはいないのでは?」

主イエスは“常識的疑問”を私たちに呼び起こしながら、神の愛の重さを語ります。


③ たとえ話は、「悔い改める一人の罪人のために、天では喜びがある」と締めくくられます。ですが、ここで一つ問いが浮かびます。いったい、誰が悔い改めたのでしょうか? 羊は、自分で帰ってきたのではありません。道に迷い、さまよっていただけです。銀貨に至っては、動くことすらできません。ただ落ちたまま、床に転がっていたのです。しかし、羊飼いは羊を見つけて肩に担ぎ、女主人は銀貨を見つけて友人を呼び集め、喜びの宴を開く。それこそが「悔い改め」なのだと、主イエスは語られます。つまり、悔い改めとはまず、神の側から始まる出来事なのです。神が探し、見出し、抱きしめる。その愛に包まれて初めて、人は応答することができる。悔い改めとは、私たちの努力や意志の結果ではなく、神のあわれみが先立つ恵みなのです。


④ 世の中は、失敗した者、役に立たない者を切り捨てます。律法学者やファリサイ派は、そうした考えに生きていました。「罪びとなど相手にするな」「彼らと食事を共にするなど不敬だ」と批判します。けれど主イエスは、彼らを拒みません。むしろ、進んで彼らのもとに歩み寄り、共に食卓を囲み、語られます。神の愛が、見捨てられた者にも変わらず注がれていることを示すためです。この神の姿こそ、福音の中心です。


⑤  ルーテル教会の礼拝では、「罪の告白と赦し」の時間が備えられています。静かな、ほんのひとときです。その中で、私たちは神の前に沈黙します。自分の罪を思い起こす時もあるでしょう。ただ心しずめる時とされる方もあると思います。春の鳥、夏の虫、秋の風、冬の静かさを感じる時でもあります。しかし、その沈黙の中に、すでに神のまなざしは注がれているのです。迷い、道を見失った私たちを、それでも探し、見つけ出し、抱きしめてくださる神が、ここにおられます。この神の愛があるからこそ、私たちはもう一度立ち上がることができます。その信頼に立って、今週も歩んでまいりましょう。