2025年9月16日火曜日

9/10六日市、9/12防府before after、9/13柳井、9/16徳山

 

9/12の朝、新しく購入した生垣バリカンを試すという名目で、

  防府の草刈りに出かけました。 


  裏手の牧師館の生垣。

  裏手の小道。刈り入れの前。

  9/10(水)六日市礼拝所の礼拝前? 

  秋桜はこれからですが、白い花。名前は…?

  9/16(火)徳山礼拝所の朝。
  

  9/13(土)柳井礼拝所の礼拝前。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

防府礼拝所の、礼拝開始時間が長らく間違っていました。訂正いたします。

9/17 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

9/20 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

9/21 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝 

9/24 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

9/27 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

9/28 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝 

9/14(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。

聖霊降臨後第14主日 説教 

ルカ福音書15章1節-10節 「見つけ出される羊と銀貨」

水原一郎

① ルカ福音書15章は、ある種の驚きと共に始まります。「徴税人や罪びとが皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た」。彼らは、当時の社会から忌み嫌われ、見下されていた人々です。彼らがわざわざ主イエスに近づこうとしています。これは、注目すべき光景です。この直前の14章の最後で、主イエスは「塩が塩気を失えば、何の役にも立たず、捨てられてしまう」と語られたばかりだったからです。それほどまでに厳しい言葉を語るお方のもとに、あえて近寄る人々がいたのです。おそらく彼らは、自分こそが「塩気を失った者」、社会の中で自分はもう見「捨てられている」と感じていたのかもしれません。けれど同時に、主イエスの語る「捨てられるもの」の中に、自らの姿を重ね合わせ、その方がどんな言葉を語られるのかに、望みを抱いていたのでしょう。


② その彼らに向かって、主イエスは三つのたとえを語ります。「見失った羊」「なくした銀貨」「放蕩息子」のたとえです。三つに共通しているのは、たとえ一つでも失われたものがあれば、それを放っておかないという姿勢です。見つけるまで探し、見つけたときには喜ぶのです。けれども、これらのたとえは私たちに違和感も与えます。

·     「たった一匹のために、九十九匹を荒れ野に置いていくのは危険では?」

·     「九枚あるなら、それで十分では?」

·     「あのような放蕩息子を許す父親は、現実にはいないのでは?」

主イエスは“常識的疑問”を私たちに呼び起こしながら、神の愛の重さを語ります。


③ たとえ話は、「悔い改める一人の罪人のために、天では喜びがある」と締めくくられます。ですが、ここで一つ問いが浮かびます。いったい、誰が悔い改めたのでしょうか? 羊は、自分で帰ってきたのではありません。道に迷い、さまよっていただけです。銀貨に至っては、動くことすらできません。ただ落ちたまま、床に転がっていたのです。しかし、羊飼いは羊を見つけて肩に担ぎ、女主人は銀貨を見つけて友人を呼び集め、喜びの宴を開く。それこそが「悔い改め」なのだと、主イエスは語られます。つまり、悔い改めとはまず、神の側から始まる出来事なのです。神が探し、見出し、抱きしめる。その愛に包まれて初めて、人は応答することができる。悔い改めとは、私たちの努力や意志の結果ではなく、神のあわれみが先立つ恵みなのです。


④ 世の中は、失敗した者、役に立たない者を切り捨てます。律法学者やファリサイ派は、そうした考えに生きていました。「罪びとなど相手にするな」「彼らと食事を共にするなど不敬だ」と批判します。けれど主イエスは、彼らを拒みません。むしろ、進んで彼らのもとに歩み寄り、共に食卓を囲み、語られます。神の愛が、見捨てられた者にも変わらず注がれていることを示すためです。この神の姿こそ、福音の中心です。


⑤  ルーテル教会の礼拝では、「罪の告白と赦し」の時間が備えられています。静かな、ほんのひとときです。その中で、私たちは神の前に沈黙します。自分の罪を思い起こす時もあるでしょう。ただ心しずめる時とされる方もあると思います。春の鳥、夏の虫、秋の風、冬の静かさを感じる時でもあります。しかし、その沈黙の中に、すでに神のまなざしは注がれているのです。迷い、道を見失った私たちを、それでも探し、見つけ出し、抱きしめてくださる神が、ここにおられます。この神の愛があるからこそ、私たちはもう一度立ち上がることができます。その信頼に立って、今週も歩んでまいりましょう。



2025年9月9日火曜日

9/3六日市、9/6柳井、9/7徳山、防府

 9/3(水)六日市礼拝所の様子。本日は聖餐式が行われました。

9/6(土)柳井礼拝所。午後の礼拝堂は暑いです
(最近、それしか書いていないような気がします)。
しかし献花を見ると、徐々に秋に移っているような気がします。
9/7(日)徳山礼拝所。
朝の礼拝堂はすがすがしい雰囲気です。

 9/7(日)防府礼拝所。

裏の生垣が伸びてきました。元気なのは草ばかり、と思わされます。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

9/10 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

9/13 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

9/14 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

9/17 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

9/20 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

9/21 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

        15時 防府チャペル礼拝 

9/7(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。

礼拝の聖書箇所ですが、日課とは異なっています。

日課はルカ14章25-33節ですが、説教はルカ14章34-35節で作成しました。

聖霊降臨後第13主日 説教 

ルカ福音書1434-35節 「存在の価値―地の塩」

水原一郎

① 「塩」について語られているこの箇所。私たちは蒸し暑いこの夏を越えてきました。台所は湿気がこもります。専用の入れ物に入れているとはいえ、時に塩は湿り気を含んで、固まります。塩は周りの影響を受けやすい、時に私たち人のようなものなのです。


② 本日は、ルカによる福音書143435節から、主の御言葉に耳を傾けたいと思います。この箇所では、主イエスが突然「塩」について語っているように見えます。「いきなり」と思えるこの言葉ですが、実は、他の福音書との関係において、その意味がより深く理解されます。特にマタイによる福音書513節にある「あなたがたは地の塩である」という有名な言葉と併せて読むことが大切です。マタイでもルカでも、「もし塩が塩気を失ったら」という、もしものことを言われます。つまり、本日の箇所は、「地の塩、世の光」という主の言葉を背景として読まれるべきものです。


③ マタイ福音書の「地の塩」「世の光」の言葉は、主イエスが召し出したばかりの弟子たちに語られた言葉です。弟子としてのキャリアがこれからの弟子たちに対し、イエスはまず、その存在が、かけがえがないと宣言されます。塩も光も、どちらもこの世に不可欠なものです。主は、「あなたがたがいること自体が、この世に必要なのだ」と語っておられるのです。行動よりもまず存在に意味がある。それが主イエスの言葉です。


④  この前提を踏まえて、ルカ福音書14章の言葉を読みましょう。まず、「塩が塩気を失う」とはどういうことでしょうか。塩の本質は塩辛さ、すなわち他のものに影響を与える力です。その本質が失われることは、本来あり得ないことです。が、現実には「湿気」が塩を変質させ、役割を損なわせます。塩は他と関わることで初めて意味を持ちます。「塩気がなくなる」とは、他との関わりを失うことを指しています。


⑤ このことを私たちの日常に当てはめてみましょう。私たちの「関わる力」を失わせる「湿気」のようなもの――それは周囲の言葉、出来事、不信、無力感、傷つけられた心、そういったものかもしれません。何気ない一言や出来事が、私たちの心を内に閉じ込め、他者と関わろうとする力を弱めていきます。主イエスは、塩気を失った塩は「役に立たず、外に投げ捨てられる」と語られました。これは厳しい現実です。


⑥ しかし、そこで終わらないのが主イエスの福音です。次章のルカ15章において、主は「失われたものを探し出し、喜ぶ」三つのたとえ話を語られます。「迷い出た羊」「失われた銀貨」「放蕩息子とその兄」。失われた存在に対する主の深い愛と関心を表しています。この世は、私たちの社会は、「役割を果たせないもの」「関われなくなった者」を捨てる厳しさがあります。しかし、主はそうではありません。主は、関われなくなった者にこそ目を注ぎ、その存在の尊さを喜ばれるのです。


⑦ 主のまなざしの中で、私たちは常に「かけがえのない一人」として見られています。たとえ今、心が湿気に覆われていても、主は回復を願っておられます。主によって癒され、心を整えられた私たちは、再びこの世に出ていき、周囲に良い影響を与える「塩」として生きることが求められています。自分の存在が尊ばれている――その確信を力として、他者との関わりを取り戻しつつ、日々を歩んでいきましょう。
















2025年9月2日火曜日

8/30.31.9/2 とうがらし乾燥中、柳井、防府のゆり

 

 8/31(日)徳山礼拝所の礼拝で捧げられた「とうがらし」の実。

 処理をして、摘んで、乾燥中。果たして食べられるでしょうか?

 8/31(日)防府礼拝所の記念堂。

 野の百合が一輪。

 8/30(土)柳井礼拝所の献花。

 こちらも百合。

 8/31(日)徳山礼拝所。とうがらしが・・・。
 8/27(水)。この日は須金あたりでぽつぽつ降り出したものが、広瀬では豪雨。

 六日市では止んでいました。

 「ゲリラ豪雨」という雰囲気ではなく、夕立。この言葉も最近聞かなくなりました。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

9/3 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

9/6 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

9/7 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

9/10 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

9/13 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

9/14 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

        15時 防府チャペル礼拝 

8/31(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。

聖霊降臨後第12主日 説教 

ルカ福音書1417-14節 「比べる心から、祈る心へ」

水原一郎

① 本日の聖書は、ルカ福音書141節および714節となります。「安息日」つまり神さまのみ前に心を安んじる日の出来事です。主イエスが、安息日の意味を回復され、痛み、苦しみのただ中にある方々と共におられる、主のまなざしを覚えます。


② まず1節を見ましょう。「安息日のことだった。イエスは・・・あるファリサイ派の議員の家で食事をされた」とあります。この日、イエスは礼拝の後、有力なファリサイ派の議員のもとに招かれました。ところで、安息日をめぐっては、すでに13章で「十八年もの間、腰が曲がっていた女性」を癒した主に対して会堂長が憤る場面がありました(13:1017)。今日の箇所(14:1)の続きである、読まれなかった26節にも同様の緊張が見られます。体のなかに水分が溜まる「水腫」を、主が癒されたのです。


③ 安息日は「神を礼拝する日」として重んじられていました。会堂長、ファリサイ派は、「礼拝をする」ために「何をしてはならないか」という禁止を定めていたのです。それに対し主イエスは、安息日を「人の命と尊厳が回復される日」と見ておられたのです。先日の「十八年もの間、腰が曲がっていた女性」にしても、読まれなかった26節の「水腫」の人にしても、その痛みは当人が良く知ります。ファリサイ派はその痛みをあくまでも「他人事」としますが、主イエスは「自分事」とします。だから、癒されるのです。禁止事項で固められた当時の安息日を、神のみ前に心を休める時とするのです。


④ 場面は食卓へ移ります。招かれた人々は、我先にと上席を選びました。誰がどの席に座るか名誉と体面がものをいいます。「自分はどこに座れる者か」自分と他者とを比べ、競い、優劣を決める心です。「誰がどの席に座るか」ではなく、「自分がどの席に座りたいか」が先行する空気。背景には、他者と自分とを比べる思いがあります。


⑤ そこで主は語られます。「高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」ここで言われているのは、単なる席次のマナーではありません。神の国では、評価の物差しそのものが入れ替わる、ということです。社会では、人のまなざしの前に私たちは身を置き、座らされます。しかし安息日は、人ではなく、神のまなざしの前に――低く座るのです。そして主は、招かれた客だけでなく、主催者にも語られます。「昼食や夕食の会を催すなら、友だち、兄弟、親類、金持ちの隣人を招くな。むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招け。」見返りを求めない交わり。そこに――神の国の食卓が、いま、ここに、ひらかれます。


⑥ きょう、この場にも、見える痛みを負う方がいるでしょう。外からは見えない深い痛みを抱える方もおられるでしょう。主は、どちらも見過ごされません。安息日とは、痛む者に「安らぎ」と「回復」が与えられる日。比べることをやめ、神の前に静まり、低く座る日です。では、新しい一週間を、どう歩み始めましょうか。三つ、具体的に申し上げます。一つ、人の眼差しの中に、励まされて出てゆく。二つ、今この時は「神の眼差しの中に座る」と覚える。三つ、この週、見返りを期待できない相手を、一人、覚えて祈る。


⑦ 主イエスは、安息日のただ中で、痛む者を癒し、高ぶる者を戒め、へりくだる者を高くされました。私たちも、そのまなざしの中に立ち、新しい週へと歩み出しましょう。



2025年8月27日水曜日

8/20.23.24 六日市のコスモス、柳井、徳山と防府

 

 8/26(火)徳山礼拝所の朝です。

 教会の公式ブログという観点から見ればまったく関係ありませんが、

 昨日、徳山の「TOSO 永源山プール」公園プール|周南市のTOSOH PARK 永源山 

 午後の時間、漬かってきました。影響は昨日から、てきめんな日焼けとして表れています。

 8/24(日)防府礼拝所の様子でした。

 会員が入院していますので、祈りをささげました。

 8/23(土)柳井礼拝所の聖壇です。

 久しぶりに10名突破。子どもも入れると14名でした。

 子どもの声は、力をいただけます。

8/20(水)六日市礼拝所の礼拝後。左側の「わさわさ」が、一カ月後にはどうなっているでしょうか。たのしみです。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

8/27 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

8/30 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

8/31 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

9/3 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

9/6 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

9/7 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

        15時 防府チャペル礼拝 

8/24(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。

聖霊降臨後第11主日 説教 

ルカ福音書1310-17節 「見て見ぬふりを越えて」

水原一郎

 本日、私たちに与えられた御言葉は、ルカ福音書1310節から17節です。会堂で教えておられた主イエスの前に、「ひとりの女」が登場します。彼女は、十八年ものあいだ、腰が曲がったまま、まっすぐに立つことができませんでした。主イエスは、この女性を見て、声をかけ、手を置かれました。その瞬間、彼女は癒され、立ち上がり、神を賛美したと記されています。その姿はまるで、長く暗いトンネルを抜けた人のようです。神を仰ぎ見て賛美すること、それは彼女が十八年間、できなかったことでした。

 

② 彼女は、この町の、会堂の、見知った顔であったはずです。にもかかわらず、会堂長をはじめ、人々の心には、彼女の存在は「いてもいなくても同じ」だったのかもしれません。まず一八年間、彼女は会堂の礼拝に集い続けました。けれど、少なくとも会堂長はこの女性に思いを向けません。またこの女性も、自身の心にあるものを会堂長に言えるような、そういう雰囲気でもありません。現代の私たちにも覚えがあることではないでしょうか。日々すれ違う、苦しみを抱えた人の存在。見えているはずなのに、見ていない。聞こえているはずなのに、聞こうとしない。そうして、見過ごされてきた痛み、声なき声。主イエスは、まさにそこへと、まなざしを向けられたのです。

 

③ けれども、癒しの様子と結果を見た会堂長は憤ります。「今日は安息日だ。癒しは他の日にしてほしい」と言います。これは、主イエスにではなく、群衆に向けて語られた言葉でした。言い換えれば、自分の立場を守るための、注意喚起のふりをした非難です。おそらく彼は、十八年のあいだ、この女性と顔を合わせてきたでしょう。けれども、その痛みに目を留めたことは、一度もなかったのではないか。安息日の「正しさ」を守るあまり、人ひとりの「痛み」が後回しにされていったのです。

 

④ それに対して、主イエスは語ります。「誰でも安息日にも牛やろばに水を飲ませるではないか。まして、この女を、十八年もの間サタンに縛られていたこのアブラハムの娘を、解いてやってはいけないのか」。ここに、主のまなざしの核心があります。律法の正しさ、つまり自分の論理を振りかざすより先にすることがある。まず目をとめよ、まず声をかけよ、まず手を差し伸べよ――主はそのように言われるのです。

 

⑤ 皆さん、十八年間、腰が曲がったままのこの女性の姿は、私たち自身ではないでしょうか。あるいは、私たちの隣人の姿ではないでしょうか。社会の中で、家庭の中で、教会の中で、痛みを抱えながら、声を上げられずにいる人。「見てほしい」「気づいてほしい」と願いながら、黙って下を向いている人。そういう方々が、私たちのすぐそばに、生きておられるのではないでしょうか。

 

⑥ 主イエスのまなざしは、今もそのような人々に注がれています。「そのままでいい」と通りすぎるのではなく、「その人の痛み」を見つけ出し、「今、ここで癒す」ために、主は立ち止まってくださるのです。そして、同じように私たちにも呼びかけられます。――見て見ぬふりをやめなさい。――ともに見る者として、ともに歩む者として生きなさい。この一週間、私たちは誰とすれ違うでしょうか。誰の痛みに目を留めるでしょうか。主のまなざしに導かれて、私たちもまた、誰かの「十八年」に寄り添う者として、遣わされてまいりましょう。



2025年8月19日火曜日

8/16.17 柳井、徳山のアサガオ

 

8/19(火)徳山の朝、咲いたアサガオ。

今朝は曇り空。

8/16(土)柳井チャペル。こちらも曇り空。

晴れれば尋常ではない暑さ。曇りでも、こもる湿気。降れば降ったで異常な降り方。

けれどこれも、自然のいとなみの出来事なのでしょう。


今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

8/20 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

8/23 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

8/24 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

8/27 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

8/30 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

8/31 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

        15時 防府チャペル礼拝 

8/17(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。

聖霊降臨節第10主日 説教 

ルカ福音書1249-56節 「理不尽のただ中におられる主」

水原一郎

    「私が来たのは、地上に火を投ずるためである」。もし今、あなたの耳にこの言葉だけが届いたとしたら、どんな思いがよぎるでしょうか。どうして救い主が、争いや分裂のことを、自分の使命だと語られるのでしょうか。本日は、ルカ福音書124953節から、その主の真意に耳を傾けたいと思います。

 

    今日の聖書で、主は全てをご自身に関わることとされます。「私が来たのは、地上に火を投ずるため(49節)」、「私が来たのは、分裂をもたらすため(51節)」そして「家族の分裂(52-53節)」が語られます。これらを主は、ご自身から発するものとします。ただこれらは、主以前も主以降も、人と人とが集う社会の中では、繰り返し起きたことであり、今もこれからも起きうることです。問題は、このような普遍的なことを、なぜ主はご自身のこととして引き受けたのか、です。

 

    聖書でも、最初の「創世記」には「人類最初の兄弟げんか」であるカインとアベルの姿が書かれています。二人という状況でも、争いは起きてしまうのです。また最後の「ヨハネの黙示録」では、国家からの迫害を受けたキリスト者の現状と希望を記したものと言われます。国家の都合により、人々の信仰や自由な生活が妨げられることは、起こり得ることなのです。

 

    起きてくる「分裂、分断」を受け止める側、当事者の立場で見ると、これほど理不尽なことはないでしょう。アベルは、懸命に働いて捧げただけのです。しかしねたみで殺されるのです。黙示録のキリスト者は、信仰を人生の支えとしていたのです。しかしキリスト教を捨てることを求められるのです。キリスト者であろうとなかろうと、「理不尽」は私たちの日常のすぐ傍にあるのです。そのことをご存じの主は、なぜ「分裂や分断」をご自分に由来することとして語られるのでしょうか。

 

    それは「理不尽の声を、問われるため」と見ます。「神よ、主よ、なぜですか?」という、あらゆる災難、苦難に直面する時に人が発する悲嘆の声を、受け止めるためです。災難、苦難において、主の時代の宗教者はいわゆる「因果応報」を説きました。そこには、起きてくる、巻き込まれる理不尽を、当人に負わせるだけです。その人々への心までは顧みられません。今主イエスは、あえてその厳しい中に踏み込みます。「なぜですか、どうしてですか」という、答えの出ない問いにさまよう人々の心に飛び込まれます。その渦中の私たちに、ご自身を共に居らせるのです。

 

    皆さんがこれまでの歩みのなかで「理不尽」だと思われたことは何でしょうか。それは、私たちのすぐそばにあります。避けようと思っても避けきれず、ときに私たちを打ちのめします。しかし主イエスは、その理不尽を私たちと共に引き受け、「なぜですか」という問いのただ中に立ってくださいます。実際、この直ぐ後で主は「究極の理不尽」である災害や事故、死ということに向き合います。だからこそ、私たちはその問いを抱えたままでも、主のもとに行くことができます。たとえ答えが見えなくても、主は共におられ、支え続けてくださる方だからです。この一週間、どんな問いや重荷を抱えるときも、理不尽を担う主と共に歩んでまいりましょう。


2025年8月13日水曜日

8/9.10 柳井、防府、徳山

 

 8/10(日) たどり着くのが困難なほど、山口県では豪雨となっていました。

 防府の礼拝は、短い形で守り皆さまの帰宅を見送りました。


 8/5(火)召天された教会員を覚え、毎年ご友人の方がお花をくださいます。

 8/10(日)徳山の教会員が召天をし、ご葬儀が8/11.12と行われました。

 ご家族に天来の慰めを覚え、祈ります。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

8/13 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 家庭礼拝となります。

8/16 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

8/17 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 8

8/20 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

8/21 木曜日 牧師 広島出張

8/23 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

8/24 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

        15時 防府チャペル礼拝 

8/10(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。

聖霊降臨後第9主日 説教 

ルカ福音書12章32節-34節 「小さな群れに寄り添う神」

水原一郎

 本日はルカ福音書123234節の御言葉から、「恐れの中で生きる私たちに寄り添う神の養い」についてご一緒に味わってまいりましょう。冒頭の「小さな群れよ、恐れるな」という言葉――皆さんはどう聞かれるでしょうか。正直に言えば、恐れることはたくさんあります。健康のこと、家族のこと、将来の生活、経済的な備え、人間関係の行き詰まり。弟子たちもまた、不安のただ中にいました。


 今日の言葉の前には「財産の相続」に関するやりとりがあります(12:1315)。ある人が主イエスに「兄弟に、遺産を分けるよう言ってください」と訴えます。申命記の律法では権利は守られていましたが、この人は「少しでも多く欲しい」と思ったのでしょう。しかし主イエスは介入せず、「あらゆる貪欲に気をつけなさい」と警告されました。そして「富を積んでも命の長さは変わらない」というたとえを語られ、「野の花」「空の鳥」のように、神の養いを信じて生きる道を示されます。ここには、「得ることに執着する生き方」から、「神の備えに喜ぶ生き方」への招きがあります。


 「神さまの備え」とはどういうことでしょうか。32節で主イエスはこう宣言されます。「あなたがたの父は、喜んで神の国をくださる」。二つのことが、言えます。一つ目、ここで使われている「喜んで(ギリシャ語 eudokeō)」は、「心から望み、進んでそうする」という意味です。神はいやいや与えるのではなく、喜びをもって、積極的にあなたに備えてくださるこれが一つ目です。二つ目。神の国とは単に死後の天国のことではありません。神の支配と導きが、いまこの地上であなたの歩みに及んでいる状態です。つまり「あなたに必要なものを、神は喜びをもって、今から与えられる」という約束です。


  3334節では「持ち物を売り、施し、天に富を積め」と命じられます。弟子たちはきっと思ったでしょう――「全てを捨ててきたのに」「そんなに簡単に手放せるだろうか」。また「このような無一物の教えが受け入れられるだろうか」と。しかし主イエスは、ここでは「関わり」を言われます。「神が備えてくださるから」何もしなくていい、ということではありません。むしろ、自分の持ち物を他者に捧げ、他者の賜物を頂くという関わりです。「売り」「施す」という言葉から、金銭や物質に限定されがちですが、主イエスは「人と人との深い関わり」を語るものなのです。


 新しい職場、初めての学校、慣れない場所、病院や施設私たちは知らない場所に行くとき、不安を覚えます。しかし、そこに自分を心から歓迎してくれる人がいると分かれば、安心できます。私たちの人生のこれからの道も同じです。先が見えないとき、不安はつきものです。けれども、その先で待っているのは、あなたを歓迎し、喜びをもって必要を備える神です。


⑥ 「宝を天に積む生き方」というものは、どのようなものでしょうか? 私たちの日々は、「何が人に喜ばれるか」を中心に置いたものと言えます。「何が神に喜ばれるか」を加えることは出来るでしょうか? 頂いているものを、神さまにお返しをする生を覚えたいと思います。


2025年7月27日日曜日

7/23.7/27 六日市と徳山

 

 7/27(日)朝の徳山の礼拝所です。

 この日は朝5時くらいから、近隣の中学校、吹奏学部が「朝練」をしていました。

 「マードックからの最後の手紙」を堪能できました。


 7/23(水)六日市礼拝後に撮った一枚です。

 季節は大夏です。柿はまだ青く、小春日和を勘違いしたコスモスが咲いていました。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

7/30 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 家庭礼拝となります。

8/2 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

8/3 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 8

8/6 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

8/9 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

8/10 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

        15時 防府チャペル礼拝 

7/27(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。

聖霊降臨後第7主日 説教 

ルカ福音書11章1節-4節 「祈りを教えて下さい。」

水原一郎

①  ある日、イエスさまは静かに祈っていました。その姿をじっと見つめていた弟子が、思わず声をかけます。「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」この言葉に、私は心を打たれます。弟子たちは、祈ることが何であるか、どう祈ればよいのか、確信がなかったのでしょう。祈りに、不安を感じていたのです。


② 祈りとは、本来自然にあふれてくるものだ。私たちは、そう思うかもしれません。けれど弟子たちは気づいていたのです。「自然にあふれ出る祈りの中身は、自分たちのことばかり」と。自分たちの祈りには、隣人への配慮、愛が足りない、のかもしれないと。だからこそ、彼らは願いました。「主よ、祈りを、教えてください」と。イエスさまは、その願いに応えられました。このことが教えているのは、祈りとは、自分でつくるものであると同時に、神から“教えられる”ものだということです。


③ 主が弟子たちに与えた祈り――それが、私たちが今も共に祈っている「主の祈り」です。「父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように…」この祈りの始まりは、私たちの願いではなく、神さまへの賛美です。「こうなりますように」「あれが叶いますように」――そう願うこと自体が悪いわけではありません。けれど主の祈りは、まず神さまを見上げるところから始まるのです。


④ 最初に祈られるのは、「御名が崇められますように」。それはこういう意味です。「神さまの名が、この世界の人々の心の中で、大切にされますように」。けれど現実にはそう感じられないこともあります。戦争や飢え。争いや自然災害。神さまの名が軽んじられているかのように見える現実があります。でも、私たちは祈るのです。この世界のただなかに、神のご支配が、平和と正義と憐れみが、訪れますように――と。「御国が来ますように」も同じ祈りです。神さまの望まれる世界が、遠い天上ではなく、この地上にもたらされますように。その世界の一員である私にも、あなたにも、その恵みが届きますように。そのあとに、こう続きます。「私たちの日ごとの糧をお与えください」「私たちの罪をお赦しください」神さまは、私たちの必要にも、しっかり耳を傾けてくださる方です。私たちが生きる日々の、重さも、傷も、願いも、神さまはご存知です。


⑤ そしてこの祈りは、すべてが「私」ではなく「私たち」として祈られています。「私たちの日ごとの糧」「私たちの罪」。それは、祈りが共同の祈りだからです。信仰は、決してひとりきりのものではありません。自分のためだけでなく、隣人のために。召された人のために。この教会に集う人のために。名前も知らない誰かのために。祈りとは、神さまの前で私たちが、隣人との関わりをつなぎ直す営みなのです。


⑥ ときには、詩編のように、心の叫びを神さまにぶつける祈りもあります。怒り、不安、戸惑い、嘆き――自分の思いで祈ることも大切です。主の祈りは、そんな私たちの心を、そっと整えてくれます。神さまを崇めること。隣人を思い出すこと。自分の罪を思い起こし、悔い改めること。すべてが、この短い祈りの中に込められています。祈りとは、神に向かって心をひらくこと。そして、隣人に向かって心をひらくことです。主が私たちに与えてくださったこの祈りを、これからも共に祈りながら、日々を過ごしましょう。