11/25(火)雨の徳山礼拝所。
夜半からの雨は、紅葉を散らしました。いよいよ冬。
落ち葉の掃除は明日の仕事となります。
11/22(土)柳井礼拝所。会員の方が花壇を整備されました。
11/22(土)同じく柳井礼拝所。看板も新調されました。
関係する法人の職員の方々のお働きです。
これはたまりません。箸が止まらず、気づいたら二個。
今週以降の行事は、以下のとおりです。
いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。
11/26 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝
11/29 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
12/3 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝
12/6 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
12/7 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び
10時45分 徳山チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
11/23(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。
聖霊降臨後最終主日 説教
ルカ福音書23章33節-43節 「動く私、支える神さま」
水原一郎
① 教会の暦で「聖霊降臨後最終主日」を迎えました。2025年という歩みを思い返す時になっています。秋の終わりという季節です。年末よりは1カ月前、心静かに思い出し易いと言えます。家族や大切な方を送った方もおられるでしょう。危機には至らず一年を終えられた方もいるでしょう。いずれにせよ、誰一人として“何もなかった”一年などありません。この最終主日は「王なるキリストの日」とも呼ばれます。しかし聖書が私たちに示す“王”は、権力や成功の象徴ではなく、苦しむ者と共に立ち、なお他者に心を向ける王です。今日は、その姿に一年の自分自身を重ねたいと思います。
② 十字架にかけられた主イエスは、マタイとマルコ福音書では、詩編22編を口にされます。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになるのですか。」詩編22編は、痛みから始まり、神への信頼へと歩み出す祈りです。ルカでは主イエスの叫びの記述はありません。しかし主イエスの周囲では、詩編22編が描く事が起こります。着物はくじで分けられ、人々は主をあざける。しかし、注目したいのは、主イエスがご自身の苦しみに閉じこもられなかったという点です。主イエスは叫ばず、代わりに、赦しと回復の言葉を語ります「父よ、彼らをお赦し下さい。」「今日、あなたは私とともに楽園にいる。」ルカは、見捨てられたと叫ぶ主イエスではなく、見捨てようとしない主イエスを描きます。苦しみが極まった時、人は自分の痛みに閉じこもります。しかしイエスは、そこでも「他者へのまなざし」を持ちます。「動かない十字架上の主」が、今日の主題です。
③ 主イエスの左右には二人の犯罪者がいました。片方は苦しみのあまり、おそらく弱々 しい声で主を罵ります。もう片方は、同じ弱々しい声で、ただ一つの願いを口にします。「あなたが御国においでになる時には、私を思い出してください。」こちらの犯罪者は、自分が御国に入る資格などないと思っていたのでしょう。ただ、“忘れないでほしい”“あなたの記憶に留まりたい”と願ったのです。苦しみの中で、人はしばしばこの二人のどちらかの姿になります。怒りがあふれる者もいれば、声にならない助けを求める者もいる。私たちの一年の中にも、この両方があったはずです。
④ では主イエスはどうされたか。「はっきり言っておく。あなたは今日、私と一緒に落年にいる。」主イエスは、彼の“罰を受けるべき犯罪者”としての過去ではなく、苦しみの中で差し伸べられた、ただ一つのささやかな信頼に目を留められました。ご自身が死の淵に立ちながら、なお他者の痛みと願いに心を向ける。ここに、王なるキリストの本当の姿があります。対象は、人生における揺れ動きを体感した犯罪者。そこに赦しがあります。このお方が、私たちが心を向けている主イエスなのです。
⑤ この最終主日に覚えたいことは一つです。「動き続ける私たちを、動かず支える主がいる。」状況は変わり、私たちも揺れ続けました。恐れに傾いた日も、怒りに傾いた日も、祈りすら形にならなかった日もありました。それでも主は、揺れる私たちを手放さず、十字架という“動かない場所”から支え続け、赦されておられました。詩編22編が「嘆き」から「信頼」に向かったように、十字架の犯罪者が「絶望」から「楽園」へ導かれたように、私たちの一年にも同じ主の御手が働いていました。来る年、私たちはまた動きます。揺れます。迷います。立ち止まるかもしれません。しかし、動く私を、動かず支える主が共におられる。その確かさのうちに、新しい歩みを始めましょう。




