2019年2月17日日曜日

2/17 献花と礼拝

  2/17の徳山礼拝献花です。
 ゆりの花がつぼみの状態ですが、やがて花開くことでしょう。

ご自宅のマンション庭先に咲いた水仙が、別の教会員によって捧げられました。
よい香りが玄関に広がっています。

 朝は曇り空でしたが、今は暖かな春の日差しです。
本日も礼拝があり、その後は昼食をいただきました。

 今週、来週の教会行事予定は以下のとおりです。

2/19 火曜日 11時   牧師 柳井行き
       15時 徳山聖書研究

2/23 土曜日 14時 益田礼拝
       19時 六日市礼拝 

2/24 日曜日   10時45分 徳山教会礼拝


いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。


ルカ福音書  6章37-42節
 旧約聖書の「十戒」や、律法文書は主の時代にも用いられる「裁きのための基準」でした。主の時代の人も、公式な判断基準によって「裁き」を行っていたのです。しかしその基準から外れる裁き、私的な判断基準による「裁き」があります。主が戒められたのは「私的な基準」による裁きでしょう。「公的な判断基準による裁き」を否定してしまうと、この世は成立しなくなってしまうからです。「私的な裁き」この言葉にどきりといたします。

 私たちは、それこそ主が言われるように「この人はこうだ」「あの人は…」と「決めつけ」をします。この主の言葉に心当たりがない人はいないと思います。人のことをいう時に私たちは自分の姿が見えていない。主はそのことを話の中で言われるのです。「人に厳しく、自分に甘い」私たちですし、「人を傷つけることには鈍感で、自分が傷つくときには敏感」な者なのです。それが「自分の目の丸太」という言葉に如実に表れているのです。

 そもそもこのような「行為への勧め」についても私たちは弱い。「裁くな」の言葉を聞いた当初は、他者への批判を控えようとするかもしれない。でもその気持ちを保ち続けることが出来るか、困難ですね。主の言葉には、私たちは退くことしか出来ないのです。「どうあっても裁き、自分を棚に上げてしまう」現実に生きる私たちがいます。そこに主も立って下さる「平地の説教」を聞いていたのです。つまりこの三週間、私たちは「裁き」ではなく、私たちの生の現実に共に立って下さる主のお姿を共に聞いていたのです。

 私たちが他者を「裁く」とき、そこには理由があります。裁くあなたが悪いのではない、その原因となった出来事や人物と向かい合いつつ、交わしつつ生きる私たちの苦労を主もまた共に担って下さる。そして同時に「主の祈り」の言葉をも想起したい。つまり「人を裁き」「人を許せない」私たちは、主に赦されて生きるものなのだということを。キリスト教では、「許し」は人間同士の事柄、「赦し」は神さまを通した事柄です。私はあの人を許せない、しかし神さまは同じあの人を赦して下さる。そこに立つ事を聖書は語ります。