7/16(水)の礼拝で、六日市の会員の方からいただいた銘菓「はちみつ太郎」
どこかの「やめられないとまらない」が裾野に位置するように見える、絶品です。
途中の道で開封の欲望に駆られましたが、駆るのは車だけにしておきました。
近隣の方なら、ここがどこの交差点か一目でわかるでしょう。
ヒント、右中央。
花の鮮やかさとうらはらに、落ち着いた礼拝でした。
この日は一緒に主日礼拝に出席されました。
ご召天者を囲む「夕べの祈り」は、7/12(土)19時、7/13(日)17時
前夜式は7/13(日)18時半、告別式は7/14(月)11時に行われました。
ご家族に天来の慰めを祈ります。
こちらにも、会員関係者の病床の知らせを受け、祈りました。
バリカンで刈りました。ついでに7/16(水)牧師の頭もバリカンで刈りました。
刈ったり駆ったり、忙しい一週間でした。
今週以降の行事は、以下のとおりです。
いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。
7/16 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝
7/19 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
15時 防府チャペル礼拝
7/23 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝
7/26 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
7/27 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び
10時45分 徳山チャペル礼拝
15時 防府チャペル礼拝
7/13(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。
聖霊降臨後第5主日 説教
ルカ福音書10章25節-37節 「全部はできないけれど」
水原一郎
① 本日は、ルカによる福音書10章の「善いサマリア人」のたとえを通して、「隣人になる」とはどういうことか、主イエスの問いに耳を傾けたいと思います。単なる善行の勧めではありません。主は、人間の限界の中でどのように隣人に仕えるのかという、深い問いかけを私たちに投げかけておられます。
② このたとえは、一人の律法の専門家の問いかけから始まります。「永遠の命を得るには何をすべきか。」彼の問いには、律法を熟知した者の誇りがにじんでいます。けれども主イエスは、律法そのものではなく、その律法が求める「神への愛」「隣人への愛」を実際に行うように促されました。そして、さらにもう一つの問い、「わたしの隣人とは誰ですか?」に対して、主は一つのたとえを語り始めます。
③ エルサレムからエリコへ向かう危険な旅路。そこに横たわる傷ついた者は、名も立場も記されない「ある人」です。彼のもとを通りかかった祭司とレビ人は、彼を見て道の向こう側を通り過ぎました。宗教的務めを担う者でした。ただ彼らは、目の前の苦しむ者に目を向けず、すり抜けていったのです。彼らは律法の純潔性を守ることと、隣人への憐れみとの狭間で、自分を守る方を選びました。イエスは、そうした律法の自己保身的な運用に警鐘を鳴らしておられるのです。
④ ところが、ユダヤ人から蔑まれていたサマリア人が近づき、傷ついた人を憐れに思い、自ら手当を施し、宿屋に連れて行きます。彼は銀貨二枚を宿屋の主人に渡し、「必要なら、帰りに支払う」と約束します。ここで注目したいのは、彼がすべてを一人で抱え込もうとしなかったという点です。彼は、その場で自分にできることを全力で行いました。しかし同時に、自分には手が届かない部分を、宿屋の主人、他者に託しました。そこにあるのは「手放す愛」です。無責任な放棄ではなく、人間の限界を知ったうえで、それでも愛し続けるための、勇気ある委ねです。
⑤ もう一つの存在──ロバ。傷ついた者を背に乗せ、運んだこの動物も、無言のまま、苦しみを担い、重荷を背負いました。 私たちもまた、ロバのように「隣人としての役割」を与えられることがあります。常にサマリア人のように主役になるとは限りません。しかし、「委ねられた思いを受け取り、つなぐ者」「無言で支える者」として生きることも、神の働きに与ることなのです。完全な愛を持つことは、私たちにはできないかもしれません。けれども、今、目の前の誰かに向き合うこと、憐れみを持つこと、そして必要に応じて他者に託すこと──そのすべてが「隣人になる」道のりです。
⑥ 主イエスもまた、地上に来られ、人々に寄り添い、傷を負い、救いのためにすべてをささげ、そしてなお、後を弟子たちや私たちに託しておられるのです。 「行って、あなたも同じようにしなさい。」この御言葉に応えて、完全ではなくても誠実に、いま出会うひとりに向き合う歩みを、主と共に始めてまいりましょう。