2025年10月7日火曜日

10/1六日市、10/4柳井、10/5防府、10/7徳山

 

10/7(火)徳山礼拝所の朝です。

10/5(日)納骨式が下松で行われましたが、その日の午前中の主日礼拝で、

     手前の小机にお骨が置かれ、共に礼拝に預かりました。


10/5(日)防府礼拝所です。

     二週間前に刈った生垣が、もう伸び始めています。

     残暑での礼拝でした。

10/4(土)柳井礼拝所。捧げられているのは、秋の献花です。


10/1(水)六日市礼拝所の礼拝後。まごうことなき、秋の桜。

いずれの礼拝所においても、礼拝の中で聖餐式が行われました。


今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。


10/8 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

10/11 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

10/12 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝 

10/15 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 (予定)

10/18 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

10/19 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝 

10/5(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。

聖霊降臨後第17主日 説教 

ルカ福音書171-10節 「小さな信仰で十分」

水原一郎

 本日の聖書箇所、ルカ17510節では、14節の「他者をつまずかせるな」という主イエスの教えを基にしたものです。今日の直前、16章では「金持ちとラザロ」が語られていました。豊かな金持ちは、貧しいラザロの存在を知りながらも、何もしませんでした。金持ちは自分の「無関心」に気づかず、陰府で初めて悔やみます。


 17章で、主イエスはこう言われます。「つまずきは避けられない」と。「直前の金持ち」にも、何か、無関心にならざるを得ない事情があったことを思わせます。ラザロの名を知る関心を保ちながらも、何もしないのが金持ち。「何もしない」という罪。一方で私たちが誰か近くの他者に「関心を持ち」、共に生きる以上、そこにも誰かを傷つけてしまうことは起こります。「それをもたらす者は不幸だ」と、イエスは断言されます。


  こういう「つまずき」が私たちの周りに潜んでいます。例えば、好意が受け止められなかったとき、陰口に替わる時があります。その時の一言を聞いた人が「陰でそう言われているのか」と思い、その人の周りから離れる。つまずきです。また、どれほど信仰的に振る舞っていても、他人を見下す態度をとっていたなら、いかがでしょうか。それを見た人が「あの信仰の姿は、形式的なだけだ」と思ってしまうかもしれません。しかし、「何かをしても、しなくても、罪が起こり得る、問われる」ことは、厳しい現実です。


  他にも主イエスは「一日に七度罪を犯されても、悔い改めるなら赦しなさい」と言われました。聞いた弟子たちは、困惑したはずです。「私たちには無理だ」と思ったのでしょう。だから、彼らは願います。「私たちの信仰を増してください」と。これは弟子たちの誠実な祈りでした。「もっと強い信仰があれば、赦せる」「つまずかせないように生きられる」と彼らは思ったのです。しかしイエスは、意外な言葉で答えられます。「からし種一粒ほどの信仰があれば、桑の木に『海に根を張れ』と言えばその通りになる」。つまり、信仰は「量」や「強さ」で語るものではない、というのです。小さな、取るに足らないように思える信仰でも、神への信頼があるなら、それで十分だ。問題は「どれほどの信仰か」ではなく、「神さまを見ているか」という問いなのです。


 続く710節で、主イエスは「僕のたとえ」を語られます。ここでは「神さまを見ているものの態度」「信仰の実」が問われます。畑から帰ってきた僕に、主人は「すぐに食べなさい」とは言わない。僕はまず主人に仕え、その後に自分の食事を取る。それは、それが僕の働きだからです。僕は、「主よ、私はただ言われたことをしただけです」と言うだけです。私たちは主人に、また主イエスに、「僕へのねぎらい」を期待します。けれど主は「主人は僕に頼む。僕は主人に仕える」この関係性を求めているのです。


  謙遜に、柔和に、人を責めず、赦しをもって生きる――それはこの世では弱く見えるかもしれません。しかし、それこそが主イエスの歩まれた道です。主は神の御子でありながら、僕の姿をとり、仕える者となり、十字架にまで従われました。私たちの信仰が小さく思えるときこそ、この方を仰ぎましょう。「しなければならないことをする僕」として、忠実に一週の歩みを始めたいと思います。そして、もしも「つまづき」を与えてしまったならば、そのことを後ろに見ません。悔い改めの中で、日々の働きに生きるのです。主イエスは、そのように日々を生きることを求めておられます。