3/29(日)徳山礼拝所。空気はすっかり春模様。
3/25(水)六日市礼拝所そばの水仙。こちらは香らない品種とか。3/28(土)「一粒の麦」理事さんから、子どもにメダカを頂きました。
今週以降の行事は、以下のとおりです。
いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。
4/1 水曜日 16時 六日市チャペル礼拝
4/4 土曜日 15時 柳井チャペル イースター礼拝
15時30分 防府チャペル イースター礼拝
4/8 水曜日 16時 六日市チャペル イースター礼拝
4/11 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
4/12 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び
10時45分 徳山チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
3/29(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。
受難主日 説教
マタイ福音書27章45節-56節 「この方はまことに神の子」
水原一郎
① この受難主日は、「主イエスの十字架での死」を覚える日です。けれども私たちは、この出来事からすぐに意味や教訓を引き出すことを控えたいと思います。むしろ、十字架の前で発せられた一つの言葉「この方はまことに神の子であった」という百人隊長の告白を、そのまま心に収める時としたいのです。私たちは今、主イエスの死を「理解する者」としてではなく、その出来事の前に立たされる者とされています。マタイは、弟子でも信仰者でもない、一人の異邦人、ローマの百人隊長に視線を向けます。彼は処刑を執行する側の人間でした。その彼の口から、この告白が語られます。
② 主イエスは、十字架の上で叫ばれました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。これは、人間の絶望の言葉であると同時に、なお神に向かって呼びかける祈りの言葉です。しかし、その場に居合わせた人々は、この叫びを受け取ることができませんでした。「エリヤを呼んでいる」と取り違え、嘲りと距離の中で聞き流します。百人隊長もまた、この叫びの意味を理解した者ではありません。彼はただ、国家権力の命令のもとで、処刑の現場に立たされていた者でした。主イエスの叫びは、説明されることなく、意味づけられることなく、隊長の前に置かれていたのです。
③ やがて主イエスが息を引き取ると、神殿の幕が上から下まで裂け、地が揺れ動きます。マタイは、出来事の意味を解説しません。ただ、神の側で何かが決定的に起こったことだけを描きます。その時、百人隊長は言います。「本当に、この人は神の子であった」。彼は、神殿の幕の象徴性を理解していたわけではありません。律法を学んでいたわけでもありません。そもそも神殿とゴルゴタの丘とには距離がありますから、この出来事を知ることはないのです。それでも、この告白が彼の口から発せられます。これは、彼が何かを「見抜いた」結果ではありません。むしろ、十字架の出来事そのものが、彼にこの言葉を言わせたのです。主イエスは力を示さず、神を呪わず、ただ神を呼びながら死んでいきました。その事実だけが百人隊長に示されています。その死は、ただの敗北ではなく、人の罪と断絶を神ご自身が引き受けられた出来事でした。
④ マタイ福音書は、一貫して「中心ではない、周り」に置かれた人々を通して、神の子が示される物語を描いています。最初に幼子イエスを礼拝したのは、異邦の占星術の学者たちでした。また、異邦とされた女性が、信頼をもって主にすがります。そして最後に、「神の子」を告白したのは、十字架刑を執行する側の異邦人でした。神の子は、理解され、受け入れられた中心ではなく、拒まれ、失敗し、破れた場所で現されます。マタイは、十字架を「信仰の勝利」として描きません。むしろ、すべてが崩れ落ちた場所で、なお神が人と共におられるという事実を、静かに示しているのです。
⑤ 百人隊長は、ユダヤの伝統も、律法も、主イエスの教えも知りませんでした。過越の祭りという歴史的出来事の中で、偶然その場に立ち会ったに過ぎません。それでも彼は、「神の子」という言葉を口にします。これは、十字架の出来事そのものが、彼を通して語った告白です。神が沈黙されているように見えるその時、なお神は、ご自身の子を通して語っておられたのです。私たちもまた、問いを抱え、答えを持たぬまま、それぞれの十字架の下に立たされる者です。それでも、その場に神の御子はおられるのです。受難主日は、このことを、沈黙の中で引き受ける日なのです。




