本日の礼拝献花です。ユリは古来から、「復活」の象徴として
教会で大切に用いられてきた歴史を持ちます。
台風のさなかの日曜日でしたが、本日も礼拝が守られました。
礼拝後には、ひき肉と玉子のおにぎり、コンソメスープ+チーズパンという
なかなかに栄養価のたかいメニューを頂きました。
来週も、10/19(日)10:45~礼拝が行われます。
どなたでもどうぞご自由にお集まり下さい。
本日の礼拝メッセージの要旨です。新約聖書38頁からです。
【説教要旨】 マタイによる福音書20章1-16節
聖書には、本当に起こったなら不思議な話が登場しますね。今日の聖書も、不思議な話でしょう。この世の目線や物差しで聖書を読むと、明らかにこの葡萄園は行き詰まります。だが主は初めに「天の国の例え」と言われます。これはつまり、主はこの世に生きる私たちをどう見るか、という話です。さて、朝に雇われた働き人と、夕の働き人とは、働き量は違います。
主人は朝九時の者とは、雇用契約を結びます。だが夕方五時の者とは、契約は結ばないのです。むしろ「なぜ、何もしなかったのか」と問う。答えは「誰も雇ってくれない」でした。ここから、夕方五時の者は無為ではなかったと分かります。立ち続け、仕事を求めていた。雇い主は「仕事を探していた」の声を聞きたかったですし、BEING(居ること)を喜ばれるのです。
さて、賃金支払いの段になります。主人は夕方五時からの者を最初に呼ぶ。金額は1デナリでした。朝からの者はこれを見、多くもらえると思いますが、同額故に憤慨します。ここで雇い主は彼に「最後の者にも同様に支払いたい」と告げるのです。神さまの恵みを表します。神さまは、朝9時からの者にも、夕方5時の者にも、同じように恵みを豊かに下さるのです。
さあ、この話が何を例えるのでしょうか。それは、神さまの恵みと、そのお招きに年齢制限はないということを意味します。神さまは、あなたの人生の若かりし日々にも招くし、夕方頃、つまり、年齢を重ねつつある者にも招き、恵みを豊かに備えられるということです。主のみ許では、何を為すか、何が出来るか、そういうことは問われない。この世はDoing(何をするか)を大切にしますが、主のもとではBeing(居ること)が喜ばれます。それを覚えたいですね。