きれいなユリの花が、黄色く咲くのはいつでしょう。
礼拝堂も週日は冷えていますから、来週の日曜日までには咲くのでしょう。
本日は、大根とさつま芋、いずれも冬の野菜のみそ汁と白ご飯を頂きました。
来週も礼拝は、12/21(日)10:45~行われます。
本日の礼拝メッセージは以下の通りです。
神さまは、どういうわけか私たちの人生の苦しい最中に出会って下さるものです。シオン教会・益田Cで奉職なさった故・石橋師が「足跡」という詩を訳しておられます。圧巻なのは、道を行く人が一組の足跡を指し「なぜ辛く苦しい時に一人にしたのかと」問うと、応える主は、辛く苦しい時は私が背負った、という箇所でしょう。聖書は、私たちに共なる神を語ります。
今日の聖書にも「荒野」が登場します。冒頭で彼は「あなたはどなた?」と馬鹿丁寧な詰問を受けます。その実は尋問で、不審者扱いなのです。ヨハネは自分を「メシア,エリヤ、預言者」ではないと答える。そして「あなた方の知らない方」の存在を告げる。つまり彼は「その方を知る」ということです。既に彼は、何ものにも代え難いお方を得ているのです。その方こそ主でした。
荒野とは生気の無い場所でしたし、ヨハネは自己を「何者でもない自分」と理解していました。だがその荒野で彼は洗礼を授けています。洗礼は、「罪」からの解放を意味しています。罪の負い目の中で生きざるを得ない人々に、喜びを与えたのです。それは共に生きる主でした。この時は未だガリラヤの片田舎に主はいました。主が、共に歩むお方と証ししたのがヨハネの役割です。
ヨハネは、神さまとの出会いは荒野で起きたと告げ、それ故に、その喜びを他者に洗礼という形で分かち合ったのです。私たちへの話です。主との出会いも人生の荒野で起こり、様々な行き詰まりに当たる中で主は導きます。なぜ私たちは過去の荒野を行けたのか。それは主がその荒野の中で私たちと直接、間接的に出会い相応しい助けを用意したからです。だから現在も未来も私たちのゆく道に神は良きを備えて下さいます。主と共なる歩みが証しとなるのです。