本日も、徳山、柳井、防府では礼拝が行われました。
写真は徳山礼拝の献花です。ユリの花です。
礼拝前に、ある方と、教会ではユリの花も野の花も
どちらも大切で、どちらも必要ということを話しました。
来週も礼拝は、8/23(日)
徳山10:45~
柳井10:30~
防府15:30~
8/20(木)には、
益田14:00~
六日市19:30~ です。 どなたでもご自由にお越しください。
本日の説教要旨は、以下の通りです。
【マルコ福音書6章30-44節】
詩編は賛美と祈りの言葉集です。これが讃美か、これが祈りか、と驚きの内容も含まれますが、そのようなものも、主は祈りと受け取られます。さてマルコ福音書の日課では、先週は「弟子の派遣」使徒の派遣でした。使徒たちは旅に出て帰るのです。それが日課の冒頭でした。「残らず報告」とありました。「良いニュースと悪いニュース」使徒たちは、えり好みせず全てを主に告げます。そして主は全てを受領されます。
使徒たちは休憩のため立ち去るりますが、群衆が追うのです。時分時、主は使徒たちに食事提供を命じます。しかし彼らは解散を試みるその理由は食不足でした。パン五個と魚二匹は少なすぎると考えた。ここで使徒たちは勘違いしたのです。主は全てを受領される方ということを見失ったのです。その結果パンと魚を奉げませんでした。
かつて主は使徒たちの働きに優劣を付けず、その働きに報いて休息を与えました。ここでは使徒たちは自身の劣や些少を思い、主に捧げませんでした。これは良くありません。主は人の行いの結果に優劣を付けず、求めず、全てを受け入れる方です。12人の派遣の際に主が使徒を祝したように、今また少量の食べ物を祝し、大勢に分配されました。人は、小や劣、些少であることを斜め見するが、それこそが祝福の器です。
それは食後のパンくずの総量にさり気なく表明されます。パン「屑」でさえ、12の完全数となるのです。差し出す以前には色々と思う。主はその私たちの思いを越え、全てを受け止めるのです。社会でもどこでも私たちは、受容と非受容の狭間に立つ者です。使徒たちが然りでした。その狭間に生きる者を、主は全て受け入れるのです。勇気をもって私たちは主に申し述べる思いを得たい。そして恵みを待ち望みたい。