本日の献花・・・先週の献花が一週間守られて、今週も飾られました。
本日も所要や病気でお休みの方が多かったのですが、それでも礼拝と愛さんが行われました。
今週はもう三月。ついこの間正月を迎えたばかりと思ったのに、早い時です。
今週の予定は以下の通りとなっています。
2/28(火)15:00 徳山 聖書を学ぶ会
3/2(木)13:00 益田 小浜礼拝
14:00 益田 教団益田教会での「世界祈祷日礼拝」との合同
19:30 六日市礼拝
3/5(日)10:45 徳山 礼拝
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお集まりいただけます。
本日の礼拝メッセージは以下の通りです。
【マタイ福音書17章1節-9節】
聖書登場のモーセは旧約の偉人ですが、角を生やす造形の美術作品があるのです。ミケランジェロのモーセ像然りです。中世の聖書は、モーセが十戒受領後に「角を生やす」と記すことを原因に、美術家が「角を生やす」作品を作ったのです。旧約ヘブライ語で角と光は同じ綴りのため誤訳、行き違いが発生したのです。私たちも輝かしい顔をしているか。角を生やすか。今日の聖書直前で、主に角突き合わせてつっかかる人物がいます。主の弟子、ペトロです。
主の受難予告を巡ってのことです。ペトロにとって主は栄光の人で、苦しみとは無縁であるべきでした。一方主は受難の心を示すために、特徴的な弟子三名を選び登山の伴とします。そこで主の顔が輝く。日本聖書協会は、主の顔に角は生やしません。主の神性に重きを置くペトロには夢のような光景でした。口を挟み、主をこのまま留めようとするのです。
「仮小屋を作りましょう」と言います。この小屋は、十戒を収納し、貴人を載せ、祖先の苦難と神護を覚える、これ以上はない尊い家屋です。だが主は、栄光の姿に留まるを望みません。山を降り、人の子として今後も生きる心を示されます。「山を降りる」とは主の今後を象徴する一語です。高所の栄光でなく、貴人でもなく、人と共に生きるのです。
雲の覆う時に声があります。主の受洗時とほぼ同じ言葉です。受洗時、主はヨハネに、自らの受洗根拠を「正しいこと」と宣言しました。人々と共に生きる決意を「正しい」としたのです。そしてここでも主は山を下り、共にある姿、生きる姿を示されます。来週から四旬節です。いよいよ主が十字架を見据えて生きるのです。主が共にあるのですから、それ故に私たちは「角を生やす」ような日々でも、その私と主が共にあることを覚えたい。