9/24徳山礼拝の献花、会員の方がご自宅の庭花を捧げて下さいました。
昨日、本日ともに、益田小浜、益田元町、六日市、徳山で礼拝が行われました。
聖書の学びは今週、お休みとなります。今週、来週ともに以下の日程で集会、礼拝が
行われます。
9/26 (火) 徳山 聖書の学び 休会
9/30 (土) 家庭礼拝となります。
10/1(日)10:45 徳山 礼拝
いづれの礼拝、集会ともにどなたでもご自由にお集まりいただけます。
本日の礼拝メッセージは以下の通りです。
【マタイ福音書18章1節-4節】
「その時」と聖書は書き始めます。どのような時なのか。前段落では、神殿税の徴税人がペトロに問います。「あなた方の先生は税金を払わないのか」と。余計なもんちゃくを避けようと、ペトロは主の事なのに「払います」と返事するのです。主の方からペトロに一部始終を聴いて、結末は主がご自身とペトロの分までも払うのです。他の11人の弟子たちも、主とペトロとの掛け合いを見ている。そういう状況を「その時」とまとめ、書き出すのです。
「誰が一番偉いのか」という露骨な表現は、直前の出来事を踏まえた上でのことでした。(ちなみに、少し前には主が3人の弟子たちのみを伴って登山したともあります)。残りの弟子たちにとっては、面白からぬことでしょう。主はそのような弟子たちに、「子どものようになる」という勧めを為されます。この勧めの意味することは何でしょうか。
「嫉妬心を除く」ということでしょうか。いえ、子どもほど嫉妬心をむき出しにするものもいませんね。「純粋、無邪気」ということでしょうか。子どもにも、不純な動機や邪気に満ちる時がありますね。実は、これは前段落のペトロの姿にヒントがあります。あのペトロは、軽い返事で税金の問題を請け負い、後処理を主に任せてしまいました。「主に頼った」のです。この時代の子どもとは、一般的に12歳以下を表し、親に頼って生きていました。「子どものようになる」とは、頼るべきものに頼る、そのような生き方なのです。
弟子たちの「誰が一番偉いか」との問いは、詰まる所「自分がどれだけのことが出来るか、出来たか」に至ります。人を蹴落とし、自らが背伸びするまさに「この世」です。そういう世界に生きる私たちに、主は直前のペトロのような生き方、主の周囲にいた子どもたちのような生き方でも良いと語られます。この世では、頼るべきものは、自分自身の功績、業績かもしれません。けれど主のみ前では、何も要らない、そのままで良い。その主のもとで休みつつ、この世に出て行きたい。主の元の休息場に帰ることを思いつつ。