2017年9月24日日曜日

9/24 礼拝と献花と海

9/23の小浜海岸です。すさまじいまでの透明度です。


9/24徳山礼拝の献花、会員の方がご自宅の庭花を捧げて下さいました。

昨日、本日ともに、益田小浜、益田元町、六日市、徳山で礼拝が行われました。


聖書の学びは今週、お休みとなります。今週、来週ともに以下の日程で集会、礼拝が
 行われます。

9/26 (火) 徳山 聖書の学び 休会

9/30 (土) 家庭礼拝となります。

10/1(日)10:45 徳山 礼拝 


いづれの礼拝、集会ともにどなたでもご自由にお集まりいただけます。

本日の礼拝メッセージは以下の通りです。




【マタイ福音書181-4節】
 「その時」と聖書は書き始めます。どのような時なのか。前段落では、神殿税の徴税人がペトロに問います。「あなた方の先生は税金を払わないのか」と。余計なもんちゃくを避けようと、ペトロは主の事なのに「払います」と返事するのです。主の方からペトロに一部始終を聴いて、結末は主がご自身とペトロの分までも払うのです。他の11人の弟子たちも、主とペトロとの掛け合いを見ている。そういう状況を「その時」とまとめ、書き出すのです。

 「誰が一番偉いのか」という露骨な表現は、直前の出来事を踏まえた上でのことでした。(ちなみに、少し前には主が3人の弟子たちのみを伴って登山したともあります)。残りの弟子たちにとっては、面白からぬことでしょう。主はそのような弟子たちに、「子どものようになる」という勧めを為されます。この勧めの意味することは何でしょうか。

 「嫉妬心を除く」ということでしょうか。いえ、子どもほど嫉妬心をむき出しにするものもいませんね。「純粋、無邪気」ということでしょうか。子どもにも、不純な動機や邪気に満ちる時がありますね。実は、これは前段落のペトロの姿にヒントがあります。あのペトロは、軽い返事で税金の問題を請け負い、後処理を主に任せてしまいました。「主に頼った」のです。この時代の子どもとは、一般的に12歳以下を表し、親に頼って生きていました。「子どものようになる」とは、頼るべきものに頼る、そのような生き方なのです。

 弟子たちの「誰が一番偉いか」との問いは、詰まる所「自分がどれだけのことが出来るか、出来たか」に至ります。人を蹴落とし、自らが背伸びするまさに「この世」です。そういう世界に生きる私たちに、主は直前のペトロのような生き方、主の周囲にいた子どもたちのような生き方でも良いと語られます。この世では、頼るべきものは、自分自身の功績、業績かもしれません。けれど主のみ前では、何も要らない、そのままで良い。その主のもとで休みつつ、この世に出て行きたい。主の元の休息場に帰ることを思いつつ。

2017年9月17日日曜日

9/17 台風前の海と礼拝献花

  本日、徳山礼拝で捧げられた献花です。
 礼拝堂の明かりを落として撮影したために、このようになっています。
 背景には、徳山の十字架があります。

9/16(土)小浜礼拝前の海です。近づく台風の影響で、海は大荒れでした。

昨日、本日ともに、益田小浜、益田元町、六日市、徳山で礼拝が行われました。

特に本日、台風の影響が危ぶまれましたが、大勢が集われました。

聖書の学びが再開しています。今週、来週ともに以下の日程で集会、礼拝が
 行われます。

9/19 (火)15:00 徳山 聖書の学び

9/23 (土)13:00 益田 小浜礼拝
      14:00 益田 元町礼拝
      19:30 六日市礼拝

9/24(日)10:45 徳山 礼拝 


いづれの礼拝、集会ともにどなたでもご自由にお集まりいただけます。

本日の礼拝メッセージは以下の通りです。



【マタイ福音書1613-20節】
 フィリポカイサリアとは、時の領主がローマ皇帝に献上した地域の一つでした。町に住まう住民の意思とは無関係に、地域全体がローマ風に替えられたのです。その地域に属するある町で、主がご自身の噂を求めます。町の人々は、ローマ支配下でも聖書の伝統に生きる人々でしたから、聖書の偉人(しかしごく地域的な預言者)を主に重ねます。しかしこれは、当たり障りのない答えと言えます。どこにローマの耳があるか分からない町ですから、主を、政治家でなく過去の宗教者と見做す回答を為します。余計な軋轢を防ぐ、人の姿ですね。

 そのような雰囲気ただよう中、ペトロが面目躍如します。主を「生ける神の子」と答えるのです。ローマ支配下の町で、他の弟子たちが過去の偉人の名前を持ち出してきたこの空気で、「神の子」と言う告白は素晴らしい。主もペトロの男気を「幸いである」と祝福します。

けれど主の心には彼への一抹の不安がありました。その不安を象徴するのが彼の名の呼称です。主は彼をまず「シモンバルヨナ」と本名で呼びます。今までペトロと呼んでいたのに、ここで本名を呼ぶ。素の彼に注目し、改めて「ペトロ」と呼びます。「大岩」の意味ですが、実は石全体を表す言葉です。意味には大岩も小石もあるのです。また彼の地は火山地帯で、軽石も転がっていた。つまり彼を「ペトロ」と呼んだ意図は、主にしか分からない。確かに彼は、やがて偉大な人物となりますが、果たして主はどのような意図で彼をペトロと呼ぶか?

 ここで面目躍如の答えを為したペトロは、直後に散々な叱られようを見せています(退け、サタン)。主の意図としては、ペトロを含む誰もが、小石、さざれ石のようなものだったのでしょう。けれども「さざれ石が巌となる」ペトロはやがて、自身の不甲斐なさをも全て知られている所に立って、教会を導く働きに身を投じて行くのです。巨岩となったのです。ペトロが主から頂いた「鍵」は私たちにも与えられています。何を開ける鍵でしょう。
 

2017年9月13日水曜日

9/10 礼拝とコンサート、そして海

  9/9の小浜礼拝前の海です。あまりにもきれいだったので。

 9/10 徳山C礼拝後のコンサート前です。
 
コンサート後の花束贈呈。
その2.

先週土曜日、日曜日ともに、益田小浜、益田元町、六日市、徳山では礼拝が行われました。


聖書の学びが再開しています。今週、来週ともに以下の日程で集会、礼拝が
 行われます。

9/12 (火)15:00 徳山 聖書の学び

9/16 (土)13:00 益田 小浜礼拝
      14:00 益田 元町礼拝
      19:30 六日市礼拝

9/17(日)10:45 徳山 礼拝 


いづれの礼拝、集会ともにどなたでもご自由にお集まりいただけます。

本日の礼拝メッセージは以下の通りです。



【マタイ福音書1521-28節】
 なぜ母は「私を憐れんでください」と主に言われたのでしょうか。「悪霊」に苦しめられているのは娘であって、母は少なくとも病の当事者ではありません。実際、17章では「息子を憐れんでください」と願う別の父が登場します。なぜこの母は「私を」と願ったのか。この母の思いは、古代的でなく現代的なものなのです。私たちも、立場や状況は違えど、必ず一度は抱いた思いなのです。それこそ、因果応報の考えによる自己否定です。

 母は娘の病を「悪霊の仕業」と考えています。まずこの病は、当地の風土病マラリアであったと察し得ます。高熱を発し、うなされ、うわ言を口にする。そういう症状から、聖書の時代はこの病が、悪霊の仕業と目されていたのです。そして、その病の原因は、本人や親の責任とされたのです。母にしてみれば、二重の苦しみです。娘の容態を見る苦しみ、そしてその責任を自分が担う苦しみ。自分のせいで、この娘が今かように苦しんでいる。だから「憐れんでください」と主に告げるのです。彼女の住むところは、異邦の地でした。

 一方、この時の主は恐らく、複雑なお気持ちの中にいました。「イスラエルの家の失われた羊の所に行きなさい(106)」主はかつてそのように弟子たちに告げ、ご自身もユダヤの人々を対象に活動していたのです。ところが主ご自身がその「イスラエルの家の失われた羊」たちに手を焼いていたのです。前の働きの地を出立され、今日の箇所で出会ったのが、異邦の女性でありながらも、因果応報の思想に苦しめられ、重荷を抱えつつすがる女性でした。

 言葉だけを見れば、主はこの女性を排除しているように聞こえます。実際、弟子たちは愚かしくもこの女性の排除を主に願っています。でも主の本心は、この女性の信仰を見た喜びに溢れていました。そして女性は、主の言葉を聞き、その恵みを知ったのです。主は、私たちにそれぞれのやり方でその姿を示されます。大切なことは、み言葉に聞くということに他なりません。主が言われた「信仰」とは、原語で「真心」という意味です。私たちは、自身の真心からの祈りと願いを主に捧げ、み言葉に聞く。そこに喜びがあります