9/10 徳山C礼拝後のコンサート前です。
コンサート後の花束贈呈。 その2.
先週土曜日、日曜日ともに、益田小浜、益田元町、六日市、徳山では礼拝が行われました。
聖書の学びが再開しています。今週、来週ともに以下の日程で集会、礼拝が
行われます。
9/12 (火)15:00 徳山 聖書の学び
9/16 (土)13:00 益田 小浜礼拝
14:00 益田 元町礼拝
19:30 六日市礼拝
9/17(日)10:45 徳山 礼拝
いづれの礼拝、集会ともにどなたでもご自由にお集まりいただけます。
本日の礼拝メッセージは以下の通りです。
【マタイ福音書15章21節-28節】
なぜ母は「私を憐れんでください」と主に言われたのでしょうか。「悪霊」に苦しめられているのは娘であって、母は少なくとも病の当事者ではありません。実際、17章では「息子を憐れんでください」と願う別の父が登場します。なぜこの母は「私を」と願ったのか。この母の思いは、古代的でなく現代的なものなのです。私たちも、立場や状況は違えど、必ず一度は抱いた思いなのです。それこそ、因果応報の考えによる自己否定です。
母は娘の病を「悪霊の仕業」と考えています。まずこの病は、当地の風土病マラリアであったと察し得ます。高熱を発し、うなされ、うわ言を口にする。そういう症状から、聖書の時代はこの病が、悪霊の仕業と目されていたのです。そして、その病の原因は、本人や親の責任とされたのです。母にしてみれば、二重の苦しみです。娘の容態を見る苦しみ、そしてその責任を自分が担う苦しみ。自分のせいで、この娘が今かように苦しんでいる。だから「憐れんでください」と主に告げるのです。彼女の住むところは、異邦の地でした。
一方、この時の主は恐らく、複雑なお気持ちの中にいました。「イスラエルの家の失われた羊の所に行きなさい(10:6)」主はかつてそのように弟子たちに告げ、ご自身もユダヤの人々を対象に活動していたのです。ところが主ご自身がその「イスラエルの家の失われた羊」たちに手を焼いていたのです。前の働きの地を出立され、今日の箇所で出会ったのが、異邦の女性でありながらも、因果応報の思想に苦しめられ、重荷を抱えつつすがる女性でした。
言葉だけを見れば、主はこの女性を排除しているように聞こえます。実際、弟子たちは愚かしくもこの女性の排除を主に願っています。でも主の本心は、この女性の信仰を見た喜びに溢れていました。そして女性は、主の言葉を聞き、その恵みを知ったのです。主は、私たちにそれぞれのやり方でその姿を示されます。大切なことは、み言葉に聞くということに他なりません。主が言われた「信仰」とは、原語で「真心」という意味です。私たちは、自身の真心からの祈りと願いを主に捧げ、み言葉に聞く。そこに喜びがあります